09003_1960

5万分の1地質図幅説明書

三宅島

(八丈島 第 3 号)

通商産業技官 一色直記

地質調査所

昭和 35 年


目次

I. 地形
II. 地質
II.1 地史概説
II.2 有史時代における三宅島火山の活動記録
II.3 岩石の一般的性質
II.4 地質各説
II.4.1 三宅島火山
II.4.2 三宅島の温泉・噴気および陸水
II.4.3 大野原島
引用文献
参考文献

図版 I・II・III

Abstract

1 : 50,000 地質図幅説明書 (昭和 34 年稿)

三宅島

(八丈島 第 3 号)


本図幅に含まれる三宅島および大野原島の野外調査は, 1957 年 7 月から 8 月にかけてと, 1958 年 3 月との合計 48 日間に行なわれたものである。

三宅島は歴史時代にしばしば噴火, とくに側噴火を繰り返したことにより著名であり, 1940 年の噴火に際しては, 東京大学地震研究所その他による詳細な地質学的, 地球物理学的研究がなされた。 しかし三宅島全体にわたる総括的な地質学的調査・研究は, いままで発表されていない。 また大野原島についての地質学的知見はまったく欠けていたといってよい。 今回の調査によって, これらのおゝよその全貌を明らかにすることができた。

I. 地形

三宅島は富士火山帯南帯 33) に属する火山島で, 東京の南南西方約 200 km にある (東経 139°28.5'~139°34', 北緯 34°2.5'~34°7')。 本島は直径約 8 km, ほゞ円形を呈し湾入に乏しい。 三宅島火山は玄武岩・安山岩の熔岩および火山砕屑岩からなる複成成層火山であって, 主成層火山山頂火口内に中央火口丘, 山腹には多数の寄生火山および寄生火口を有している(図版 1)。

図版 1 大野原島蝦根から三宅島を望む

主成層火山は截頭円錐形を呈し, 山頂には径約 1.5 km の比較的大きい火口を有している。 火口壁の北半は高く, 最高点は海抜 814.5 m, 八丁平 はようのたいろ といわれる火口原から約 120 m の高さであるが, その南半は低く現在は中央火口丘噴出物に覆われており不明瞭である。 山頂火口は通常の火口(この程度の規模の成層火山では径数 100 m が普通である)が 侵蝕によって拡大したにしてはやゝ大型に過ぎる。 おそらく1種のカルデラと考えた方がよいであろう。

主成層火山山麓の海蝕崖は最高 100 m, 通常数 10 m の高さであるが, 寄生火山熔岩が海に達している地域では, 10~20 m あるいはそれ以下である。

第 1 図 1940 年噴火以前の雄山中央火ロ丘 (地理調査所発行5万分の1地形図三宅島(1912 年測図, 1935 年修正測図)による)。 1 : 第1火口あるいは中段火口, 2 : 第2火口あるいは大穴火口, 3 : 第3火口あるいは上段火口

雄山と呼ばれている中央火口丘は, 主成層火山山頂火口のやゝ南部に偏して存在する。 この中央火口丘も成層火山であり, その最高点は火口縁南部にあって海抜 813.8 m, 火口原から約 120 m の高さである。 津屋弘逵 12), 15), 20) によれば, 1940 年の噴火活動の前には, 中央火口丘の山頂には東西に並んだ3個の火口があった(第 1 図)。 もっとも東側の火口(津屋の第1火口あるいは中段火口)は南北 600 m [ 以下の [注] 参照 ] , 東西 300 m, 中央火口丘を形成した初期の主火口である。 その西に連なっていた南北径 450 m の火口(津屋の第2火口あるいは大穴火口)は, 中段火口の西壁に当る部分に形成されたもっとも深い火口で, 雄山の最高点から約 115 m の深さにあった。 大穴の西にはもっとも浅い直径 200 m の火口(津屋の第3火口あるいは上段火口)が連なり, さらにこの火口の西壁下に直径約 20 m の竪坑状火口(pit crater)があった。 1940 年の山腹噴火に引き続いて起こった, 山頂噴火(津屋 16), 20) により噴火地点は大穴火口底の北壁寄り, 同火口西壁附近および上段火口底の3ヵ所と推定されている) により供給された岩滓および熔岩によって, 大穴火口の北西部および上段火口は埋められてしまった。

[注]
火口径の値は東京都が空中写真(1947 年 10 月および 1948 年 4 月撮影) をもとにして作製した, 5千分の1束京都三宅島森林航測図(1951)による。

第 2 図 1940 年噴火以後の雄山中央火口丘(東京都作製 東京都三宅島森林航測図(1951)による)。 1, 2 の記号は第 1 図のそれらと同じ

1940 年の噴火によって形成された岩滓丘は, 大穴および上段火口にまたがって聳え, その高さは大穴火口底から 80~110 m である(第 2 図)。 この岩滓丘は複合火口丘で a, b, c, d, e, f および g の7個の小火口を有していたが, 現在では a, b および c 火口以外は後の崩壊などによって不明瞭である。 この火口丘の北西麓に流出した熔岩は, 上段火口をほとんど完全に埋めて台地を形成している。 この台地は南西 - 北東方向の長さ約 130 m, 南東 - 北西方向の最大幅は約 85 m, 西方に突出した半円形を呈している。 これは熔岩流が円形の上段火口縁までで停止したためである。 わずかに上段火口北縁のみが熔岩流に覆われずに残っている。 1940 年の噴火によるこの複合火口丘の形成過程, および当時の形態については, 津屋弘逵 16), 22) の論文に詳述されている。

中央火口丘の南西腹には, 直径約 30 m, 南西に開いた火口を有する小さい岩滓丘が存在する。 この岩滓丘は噴気作用によって赤色~白色化した, 岩滓および火山弾からなっているが, 1940 年の拠出物に大部分覆われている。 また南東部, 中段火口の火口縁のすぐ外側には, 直径約 70 m の浅い寄生火口が存在し, 周囲に岩滓・火山弾および旧熔岩片を吹き飛ばしているが, その量は岩滓丘をつくるほど多量ではない。

主成層火山の山腹には多数の寄生火山および寄生火口が存在する。 これらのうちには, 主成層火山末期のものから, ごく近年に形成されたものまでと, 時代的にかなりの範囲があり, 古いもの(例えば二反原火口)は後の噴出物に覆われており, 単に地形的にその存在が推察されるに過ぎない(地質図幅参照)。

南西山腹には, 近年に至るまで, 噴火の中心であった 桑木平 くわのきたいろ と呼ばれるやゝ大型の寄生火山があり, 山腹斜面の単調を破っている。 しかし他の寄生火山および寄生火口の多くは小規模であって, 山腹の地形を著しく変化させてはいない。 これら寄生火山および寄生火口については地質各説の項で詳しく述べる。

大野原島は三宅島の西海岸の阿古部落の西南西約 10 km の所にある。 本島は大小9個の珪長質安山岩の岩塔および顕礁からなる。 三宅島からこの岩塔群を望むと, 右手(北)から子安(海抜 116 m)・蝦根(海抜 65 m 1) )および大根(海抜 28 m)の3岩塔が認められることから, 三本岳の名称があたえられている。 これらのうち, 最大の子安はその南東部を除いて巨礫からなる浜に囲まれているが, 他の岩塔・顕礁は直接波に洗われている。 蝦根には互に通じ合った3個の海蝕洞がうがたれている。 この岩塔は他の岩塔・顕礁に比較して, 著しく破砕され, かつ硫気変質作用を蒙っている。 このような部分が堅硬な熔岩の部分に較べて軟弱で, 容易に海蝕洞が形成されたものであろう。

II. 地質

II.1 地史概説

三宅島および大野原島を構成している火山の活動が, いつ頃から始まったかを示すような古生物学的証拠は一つもない。 たゞ火山形態の保存状態から考えて, 新期更新世よりは古くないであろう。 これら更新世以降現世まで活動している火山の, 基盤を構成する岩層は現海面上には露出していない。 しかし三宅島火山を構成する火山砕屑岩層中には, この基盤岩層から由来したと考えられる 変質安山岩凝灰角礫岩・ 変質石英安山岩軽石凝灰岩・ 輝石石英閃緑玢岩~石英閃緑岩・ 輝石閃緑玢岩 [ 以下の [注] 参照 ] および高熱変成作用を受けた火山岩が産出する。 これら岩石は伊豆半島に露出する中新世の湯ガ島層群の岩石と類似している。 このことから, 三宅島火山は(おそらく大野原島も)中新世の岩層を基盤とし, その上に噴出したものであろう。

[注]
これら半探成~深成岩類もすべて変質作用を受けている。

新期更新世になって, 現在の三宅島の位置で噴火が開始された。 はじめはおそらく海中噴火であったろうと想像される。 火山砕屑物と熔岩とが繰り返し噴出されて, 1個の成層火山が形成されていった。 こゝではこの成層火山体を主成層火山本体(main cone proper)といっておく。 しかし現在の三宅島火山は山体の開析が進んでおらず, また山体の下位は海面下に没しているので, 早期噴出物がどんなものであったかを知ることができない。 山頂火口内壁・山麓海蝕崖およびその他の地点の野外観察をもとにすると, 比較的早期には玄武岩熔岩が, 晩期には安山岩質玄武岩~安山岩熔岩が山頂火口から噴出されたらしい。 しかしながら, これら熔岩と互層する各種火山砕屑岩まで含めると, このような規則性はまったく認められない。 海蝕崖に露出するこの時期の火山砕屑岩のなかには, かなり粗大な岩塊を含む火山角礫岩がある。 これは側噴火の産物であるかも知れないが, 現在それを確認することはできない。

その後, 山頂火口からの噴火が比較的穏やかになったか, あるいは完全に休止した期間が長く続いたと考えられる。 この間に山腹には幾多の谷が刻まれ, 山麓は海蝕によって後退し, 高さ 100 m にも達する海蝕崖が形成された。 この期間は 1,000 年あるいは 2,000~3,000 年の長さであろう。

これから後の噴火は主として主成層火山本体の山腹で起こったらしい。 寄生火口活動のもっとも烈しかったのは南西中腹の桑木平火口で, 玄武岩熔岩および火山砕屑物を繰り返し噴出して低い寄生火山を形成した。 この寄生火山の山頂火口は 北東 - 南西の線上に3個相接して並んでいたものと思われるが, 現在一番南西の火口は地形的にはっきり残っていない。 この寄生火口から噴出し, 南西に流下した熔岩流は海中に達し, 熔岩台地を形成した。 薄木から銹ガ浜へ至る道路の南西側の地域は 主としてこの時期の噴出物からなるものと思われる。 富賀山(60.4 m 山), 富賀山の北方約 0.7 km の小丘および阿古部落の南にある小丘は, いずれもこの時期の岩滓丘であろうと考えられるが, 現在は後の噴出物に覆われていてはっきりしない。

この寄生火山以外にも多くの小火口が開口し, これらから噴出された熔岩は当時の谷に沿って流下した。 ある熔岩流は山麓近くで停止し(例えば神着部落のバス道路切割に露出する熔岩), ある熔岩流はすでに形成されている海蝕崖を瀑下した。 北麓の澪ガ平火口から流出した熔岩は, すぐ北の高さ 100 m に達する断崖を流下, 大久保浜に達している。 また北北西山腹から流出した寄生火口熔岩は, 低所に沿って流れ, 大久保浜西端の海蝕崖を瀑下し, 海中に熔岩デルタを形成した。 このほかにもこの時期に属すると考えられる熔岩流が多く観察される。

主成層火山の南麓近くにある三池・ 金層 かなそ ・水溜リ・古澪(大路池)の爆裂火口, および阿古部落の南東にある爆裂火口の現在の形態が形成されたのもこの時期であろう。

第 1 表 三宅島火山活動史。 Yp : 新期寄生火山および寄生火口, CC : 中央火口丘本体, OP : 旧期寄生火山および寄生火口, MC : 主成層火山本体(この表では省略してある)。 * 印の活動のうちのあるものは中央火口丘本体の形成に干与した活動であるかも知れない

こゝではこれら寄生火山および爆裂火口を一緒にして, 旧期寄生火山および寄生火口(older parasitic cone and crater)といっておく。 第 1 表に示すように, 火山噴出物中に埋没されている人類遺跡 [ 以下の [注1] 参照 ] , およびほゞ噴出時代の確認されている黒雲母流紋岩軽石砂層 [ 以下の [注2] 参照 ] との関係から, 旧期寄生火山および寄生火口の活動は, いまから 3,500~3,600 年前よりも古くから始まり, 西暦紀元前後よりは後で, 西暦 838 年あるいは 886 年より以前までの, 2,000~3,000 年間断続したものと考えられる。

[注1]
人類過跡の絶対年代については, 明治大学文学部 芹沢長介氏から御教示を受けた。
[注2]
この黒雲母流紋岩輕石砂は, 三宅島の北東方 35~45 km にある流紋岩火山 神津島, あるいは新島の噴火に際して飛来したものと考えられる。 東京大学教養学部地学教室 中村一明氏の談話によると, 本島の北北西方約 75 km にある大島にも, これと同一の黒雲母流紋岩砂層(白色凝灰岩)が分布し, こゝでは人類遺跡包含層との被覆関係から, 古記録 4) に残された西暦 838 年の神津島, あるいは同 886 年の新島の噴火の産物であることに, ほゞ間違いないとのことである。

主成層火山の山頂火口が現在のような状態になったのはいつ頃か, はっきりしたことはいえない。 直径約 1.5 km, 北に高く南に低い(高低差は最小 110 m)火口(カルデラ)の南に偏した所で, 中央火口丘(central cone)の活動が始まった。 熔岩および火山枠屑物を繰り返し噴出して小成層火山を形成した。 噴火の中心はほゞ東西の線上を移動したらしい。 現在大穴火口北壁には熔岩・火山砕屑岩の互層がよく露出している。 こゝでは3枚の熔岩層が観察され, 下位から撤欖石玄武岩・普通輝石撤欖石玄武岩, 最上位は紫蘇輝石普通輝石玄武岩である。 この中央火口丘の活動の少なくともその一部は, 9世紀後半あるいはそれ以降まで続いたらしい。 主成層火山山頂火口壁の西縁低所を越えて溢流した中央火口丘熔岩は, 前述の黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム層を覆っている。 古記録 3) にたゞ噴火とのみ記載されている西暦 1085, 1154, 1469, 1535 および 1595 年の活動のうちの, あるものは中央火口丘形成の活動であったかも知れない。

この後の活動はふたゝび寄生火口活動で特徴づけられるものになった。 こゝでは この時期の活動で形成された寄生火山・寄生火口およびこれらから噴出した熔岩流を 一緒にして, 新期寄生火山および寄生火口(younger parasitic cone and crater)といっておく。 もちろん側噴火に先立って, あるいはそれに続いて山頂噴火を起こす場合もあった。 この時期の噴火は次の2つの型に分けられる。

(1) 主成層火山南西山腹の桑木平寄生火山およびその周辺を中心とした噴火
(2) 主成層火山山頂から放射線上に配列した小火口群からの噴火

古記録から判断すると, 17 世紀から 19 世紀前半にかけての噴火は前者 (1) に属し, 北東山腹のシトリ熔岩(1811 年 ?), 東南東山腹のベンケ根岬熔岩(辻村太郎 5) の「びやく」熔岩流), 北山腹の 1874 年(明治 7 年) および東北東山腹の 1940 年(昭和 15 年)のそれぞれの噴火は後者 (2) に属する。 このような噴火様式の差異は, 噴火地点における山体の構造の差異によるものである。

もっとも近年の噴火は 1940 年に起こったもので, 同年 7 月 12 日に, ほゞ山頂と東北東海岸の赤場暁とを結ぶ線上に開いた火口群, およびこの線からやゝ南にはずれた幾野の裂罅火口, およびその東北東延長の赤場暁湾中から噴火が起こり, 玄武岩質岩滓・火山弾を拠出, 同時に熔岩をも流出した。 山腹火口から流出した熔岩は, 神着・坪田の旧村界の谷に沿って流下し, 島下部落(現存しない)を覆って海に達した。 一方 幾野の裂罅火口から流出した熔岩はヨリダイ沢に沿って流れ, 海に達する手前約 150 m で停止した。 山腹における噴火は事実上 翌 13 日夜で終わった。 山頂噴火は同 13 日夜半に始まり, 8 月 5 日事実上終熄した。 この間に中央火口丘の大穴および上段火口にまたがって岩滓丘が形成され, その北西麓から熔岩が流出して上段火口を埋めつくした。

現在(1958 年 3 月 25 日)でも この岩滓丘の山頂火口からわずかに噴気があがっており, 1940 年噴火のなごりをとゞめている。

大野原島(三本岳)の岩塔および顕礁群は, 珪長質安山岩熔岩からなっており, おそらく熔岩円頂丘のなごりであろう。 この熔岩円頂丘がいつ頃形成されたものか, また三宅島火山と時代的にどんな関係にあるのかは, 孤立しているために, まったく不明である。

II.2 有史時代における三宅島火山の活動記録

三宅島火山の噴火活動に関する古記録は, 大森房吉 3) および桟沼悦太郎 29) によってまとめられている。 また中村左衞門太郎 9) は伊豆七島巡視日録に述べられている 1874 年(明治 7 年)の噴火記事を, 現地調査によって補足している。 1940 年の噴火活動に際しては多くの学者による総合的な調査がなされ, とくにその活動経過については本多彪・他 14) , 津屋弘逵 15), 20) および斎藤仁 18) によって詳しく述べられている。 これら記述に従って, 歴史時代から近年にいたる噴火活動経過を以下にまとめてみる。

1) 1085 年(応徳 2 年)噴火
2) 1154 年 11 月(久寿元年 10 月)噴火
3) 1469 年 12 月 24 日(応仁 3 年 11 月 12 日)噴火
4) 1535 年 3 月(天文 4 年 2 月)噴火
5) 1595 年 11 月 24 日(文禄 4 年 10 月 21 日)噴火

以上 1085 年から 1595 年までの5回の活動は, たゞ「噴火す」という記事があるだけで, 噴火の中心や噴火の規模などはまったく不明である。 しかしベンケ根岬熔岩流出に伴なって抛出された岩滓・火山弾は, 黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム層を覆っている。 このことから, この活動がこの時期の5回の活動のいずれかに相当するものであるかも知れない。

6) 1643 年 3 月 31 日(寛永 20 年 2 月 12 日)から約3週間。 1643 年 3 月 31 日午後 6 時, 烈しい雨の降るなかで地震が起こった。 午後 8 時になって山中から噴火が始まり, 阿古部落はそのため1軒も残ゆず焼失してしまった。 熔岩は海中へ約 1 km の長さに流入し, また錆ガ浜・ 夕景 ゆうげ 方面へも拡がった。 風下の方向にあたる旧坪田村には火山礫が多量に落下し, 人家は埋まり畑地はまったく荒廃してしまった (降下した火山礫層の厚さは明記していない)。 この活動は約3週間続いた。

現在の阿古部落の南東にあるコシキ岩滓丘および今崎熔岩は, この活動に際して噴出したものであろう。 古記録(三宅島御神火之記)によれば, 「坪田村ヘハ風下ニテ侯ツル故彼火石余ケイ降埋侯」とあるが, コシキ岩滓丘の噴火だけでは坪田村まで火山礫を飛ばすとは考えられない。 この噴火に際してはおそらく桑木平寄生火口も活動し, そこから抛出された火山礫が坪田村へ落下したのであろう。 同寄生火山から流下して, 現在の阿古部落の台地をつくった熔岩, および錆ガ浜南端の海に達した熔岩も, この時のものと考えられる。

7) 1712 年 2 月 4 日(正徳元年 12 月 28 日)から約2週間。 1712 年 2 月 4 日午後 6 時過ぎから雷鳴, 稲妻を伴なって地震がしきりに起こった。 午後 8 時頃, 山麓から望むと山腹で(?)絶え間なく噴火しているのが認められた。 桑木平から噴出した熔岩は, 流下して竜根ノ浜(あるいは竜根ガ浜)と呼ばれる海岸へ達し, 海中に流入し約 200 m 沖まで達した。 この熔岩流はまた北西へ 300~400 m も拡がった。 この噴火に際して, 阿古部落では泥水が湧出し, 人家の大半は埋没し, 牛馬は死亡した。 145 km 北方にある鎌倉でも遠雷のような響が聞かれ, 昼でも暗くなるほど曇り降灰した。 1週間後もなお噴煙(噴気か)が数ヵ所から立登っていた。 この活動は約2週間でほゞ終熄した。

古記録にある竜根ノ浜は, 本島の南西海岸新鼻附近にあったといわれていること [ 以下の [注] 参照 ] , 新鼻を構成する熔岩が黒雲母流紋岩軽石粒を含む褐色ローム層を覆うことから, 同熔岩はこの時に噴出したものであろう。

[注]
東京都三宅島三宅村神着の浅沼悦太郎氏の談話による。

8) 1763 年 8 月 16 日(宝暦 13 年 7 月 9 日)から 1769 年(明和 6 年)までの7年間。 1763 年 8 月 16 日夜しきりに鳴動があり, 御山(現在の中央火口丘と思われる)山頂から灼熱(?)岩片が稲妻のように拠出された。 翌日以降は鳴動, 地震が絶え間なく起こり続けた。 その間に阿古村の薄木という所で噴火が起こった。 阿古・坪田両村には火山礫・火山砂が多量に降下し, 伊ガ谷・伊豆および神着にも火山灰が降下した。 この噴火によって, 薄木には深い火口が形成され, 火口底は湧水によって満たされた。 この活動は 1763 年から 1769 年までの間続いた。

本島の南西海岸近くにある新澪は, この時形成されたものといわれている。 この新澪は 1712 年の活動に際して流出したと考えられる熔岩流を突き破った, 爆裂火口であって, その周辺には巨大な岩塊が累々と積み重なって露出している。 現在の薄木部落の北東方約 1 km の小火口から噴出し, 山麓を南南西に流れて海岸近くに達した熔岩流は, この拠出岩塊層を覆っている。 1763~1769 年の活動以降この近傍で熔岩が流出した記録がないことから, 爆裂火口形成後この活動期間内のある時期にこの熔岩は穏やかに流出したものであろう。 事実, 火口の規模も小さく, 火口周辺に拠出された岩滓・火山弾の量も少ない。

9) 1811 年 1 月 27 日(文化 8 年正月 3 日)から約1週間。 1811 年 1 月 27 日夜半, 地震・鳴動を伴なって山頂の方角に当る所で噴火が始まった。 噴火は烈しく, 夜半であるにもかゝわらず, 路上の小石まで認められるほどの明るさであった。 噴火地点は次第に東北東へ移動し, 翌朝午前 6 時頃に活動は終熄した [ 以下の [注] 参照 ] 。 一方地震は6日間も続き, 2 月 1 日夕方になって熄んだ。 しかし鳴動はその後も続いた。 北東山麓に近い 神奈 かんな 郷には火山砂礫が一面に降下堆積し, またシトリ神社近傍では降下した火山砂礫の厚さは 30~50 cm に達した。 この南方, 坪田村蓬ノ尾およびヨシノ尾附近ではさらに厚く砂礫が堆積した。 一方伊豆村では, 二反原から海岸大防ノ鼻にかけて, 幅おのおの約 30 cm, 約 2 m のへだたりをおいて平行に走る2条の裂罅が生じた。 また焼新田から姉ガ潟の海岸にかけても同様な裂罅が2条形成された。

[注]
三宅島御神火之記 29) によれば, 「… 御山ノ方ヲ見上ゲ候へバ 御発頂ノ方炎ノ焔上り次第ニ寅卯ノ方エ火先向同卯ノ刻前焼鎮リ侯」とあり, 最初の噴火地点は明記されていないが, 次第に東北東へ移動したように受け取れる。

上述の古記録の記載から, シトリ神社の南西にある西南西 - 東北東にのびる裂罅火口は この活動に際して形成された可能性が大である。 さらに山頂方向にあったと考えられる火口は, 1940 年の噴出物に覆われてしまったのであろう。

10) 1835 年 11 月 10 日(天保 6 年 9 月 20 日)から約 10 日間。 1835 年 11 月 10 日は早朝から雨が降っていた。 正午過ぎから地震が数度繰り返し, また鳴動がしきりに起こった。 伊ガ谷村の山中から発した真黒な噴煙は, 東北東の強風に送られて, 阿古・伊ガ谷両村の方へ吹きかゝって来た。 噴煙の立つなかに熔融熔岩が拠出されるのが認められた。 熔岩は笠路にある山中観音の旧地に形成された深い火口から流出し, 阿古・伊ガ谷両村界に近い伊ガ谷村長根へ流下して来るように見えた。 坪田村では地震が数回感じられただけで, 噴火が起こっていることは気づかれなかった。 噴火は同夜半過ぎに穏やかになったが, 地震および火山灰の噴出はその後も続いた。 11 月 13 日夜, 烈しい地震があり処々で崩壊が起こった。 地震は同月 19 日まで繰り返し起こったが, 同夜に至って終った。 噴火活動終了後の現地踏査により, 長根中山観音附近へ降下した火山砂礫は, 笠路山の元山中観音のあった地に形成された, 深い火口から抛出されたらしいことが分かった。 また流出した熔岩の先端は「笠路山坪田道休場」に達した。 また富賀平辺山の山頂近くに形成された 13 個の小火口から流出した熔岩は, 坪田道まで流れ下った。 噴火地点に近い伊ガ谷・阿古両村内では地辷り・岩石の崩落が起こっており, また幅 1 m 以下の裂罅が処々に形成された。

この噴火の結果, 阿古村湯波(あるいは湯場)に温泉が湧出するようになった。 翌 1836 年 3 月 31 日(天保 7 年 2 月 15 日)午後 8 時頃, 烈しい地震が起こり, 同 4 月 1 日, 2 日にも数度繰り返された。 しかし 31 日夜の同時刻頃には 江戸(東京)でも強い地震があったという記録(続王代一覧後記 30) )があり, 三宅島火山の活動に起因する火山性地震ではないと思われる。

筆者の調査では当時の火口を確認することはできなかったが, 阿古部落東方山腹に分布する熔岩は 古記録(三宅島御神火之記)に 「笠路山坪田道休場ニテ焼留侯」とある熔岩に相当するものであろう。

11) 1874 年(明治 7 年)7 月 3 日 [ 以下の [注] 参照 ] から約2週間。 1874 年 7 月 3 日は朝から小雨 が降り, また異常な暑さであった。 島下山では午前 8 時頃から時々地震が感じられた。 正午頃 烈しい地震・鳴響が突如として起こると同時に, 北北東山腹の大穴附近から噴火が始まり, 噴煙は南西風に送られて島下山の方へ吹きかゝり, 火山砂が多量に降下して来た。 噴火は山頂に近い裂罅火口から北へ1列に並んだ, 幾つかの火口から起こったらしく 9) , 流出した熔岩は北走して夕方近くに 東郷 ひがしごう (現在の神着部落のすぐ東にあった)に達し, 約 45 軒の人家を覆って海中へ流下した。 噴火, 鳴動は4日後には終わったが, 活動は約2週間続いた。 大久保の砂浜はこの噴火後の流砂によって生じたものといわれている 9)

[注]
三宅島の北西方約 45 km 離れた新島では, すでに 2 日夜「山頂ニ炎火」 29) を認めている。 このことから, 遅くとも 2 日夜には小規模ではあるが噴火が始まっていたのであろう。

山頂にもっとも近い火口は海抜約 560 m, コシキ穴の西に近接した所にあり, 南北にのびた裂罅状をなしている。 この火口から噴出した熔岩は, 前述の大穴火口に流下, その西半を埋没して北流した。 岩滓・火山砂はこの裂罅火口と山麓の土佐およびホーダイを結ぶ扇形内に厚く堆積しており, 熔岩流の表面は覆っていない。 また熔岩流の西側には この活動に伴なって抛出された岩滓・火山弾はごくまれにしか認められない。 この野外での事実および古記録から判断して, 岩滓・火山砂の大部分は熔岩流出以前に抽出されたものであろう。 その分布が東へ偏る理由としては, 噴火当時の風向および 新生火口の形態などに支配された岩滓抛出方向の偏倚によるものであろう。

12) 1940 年(昭和 15 年)7 月 12 日から 8 月 5 日まで。 1874 年の噴火後 1940 年の噴火に至る間は, 少なくとも表面上はまったく活動は休止していた。 阿古部落の北海岸にある温泉を除けば, どこにも硫気孔あるいは噴気孔もなかった。

1940 年の噴火に先立って, 前兆現象と考えられる次のような事件が起きた 15), 20)

イ) 1939 年 12 月 20 日頃, 東北東山麓赤場暁に近い火ノ穴 [ 以下の [注] 参照 ] 附近の湿地で, 湯気のような白煙が立ち, 手を当てると暖かく, 生暖かい風のあるのを, 薪拾いの子供がみいだした。 この事実は神着村小学校児童 100 名中の 6 名により報告された。

[注]
火ノ穴は赤場曉に近い 156.8 m 山の東麓にあり, シトリ熔岩の噴出活動と同時に形成された小火ロである。 現在でもその火口の周囲には, 灰長石巨晶を含む玄武岩火山弾が見られる。

ロ) 噴火の2ヵ月ほど前から島内の湧水が異常に減少したのが気づかれた。

ハ) 1940 年 5 月 26, 27 日頃, 橋爪数一は 2, 3 日の間を置いて2回赤場暁を通った際に, 赤場暁の断崖下の波打際から煙草の煙のようなものが立ち昇っているのを, 2回とも気づいた。 またその頃, 神着・坪田村界に当る山腹からも煙らしいものが立ち昇るのを見たというものがあった。

津屋弘逵は 以上のうち ロ) は噴火に直接関係のある現象であったかどうかは明らかではないが, その他の2項の現象は, これらが確かな事実とすれば, 明らかに 1940 年の噴火の前兆であって, すでに 1939 年末頃から火山活動が地表に近づいていたと考えた。

さらに噴火の数日前から次のような現象が気づかれていた。

ニ) 神着・坪田村界の山腹(海抜約 200 m)で炭焼をしていた広瀬実一家のものは, 噴火の1週間ほど前から 「化物ガ出テ家ガ揺レル」と島下部落(噴火で埋没)へ幾度も訴えて来た。

ホ) 噴火現場近くで炭焼をしていた山本は, 噴火の 4, 5 日前から地震を感じた。

へ) 赤場暁島下附近でてんぐさ採集に従事していた海女達は, 噴火の 3 日ほど前から海中で鳴響を感じた。

卜) 噴火前(日時不明), 赤場暁附近を遊泳した阿古村警防団員は, 海水の温度が平温より 5, 6 度も高いことを感じた。

チ) 噴火の 4, 5 日前から東の方(神着・坪田村界近くの山腹から見て)に, 昼も夜も弱い地鳴りが聞かれた。

リ) 神着村小学校の児童のなかで, 噴火現場の比較的近くに住んでいた 100 名について噴火前の異常を聞いた結果, 次の報告を得た。

噴火数日前, 寝て耳をつけると雷のような音を聞いたもの 3 名。
噴火の 3, 4 日前から波の音とも雷の音とも異なる音を聞いたもの 3 名。
噴火の 3 日ほど前から気温が高く感じられ, 音が発するのを聞いたもの 5 名。
噴火の 5 日ほど前から海で泳いでいて,
爆音のような音が海底から発するのを聞いたもの 1 名,
海中に潜ってめまいがするように感じたもの 1 名。

ヌ) 噴火の前日, 見取畑 [ 156.8 m 山西方の開墾地 ] でゴーという地鳴りが聞かれた。

津屋弘逵は以上 ニ)~ヌ) の報告を総合, 考慮し, 噴火の少なくとも1週間ほど前から, 赤場暁方面の山腹および海底で, 人体に感じられるほどの地震や鳴動がしばしば起こっていたに違いなく, また赤場暁湾附近の海底には噴気孔が生じて, 海水の温度が局部的に数度上昇していたと想像した。

噴火開始当日の 7 月 12 日は, 1週間前からの荒天がなお続き, 南西風が吹き, 雨が降ったり止んだりし蒸暑かった。 そしてこの日には神着部落でも地震が感じられるようになった。 坪田部落では午後から弱い地震が感じられたとも, あるいは噴火直前まで感じられなかったともいわれている。 阿古部落では地震あるいは噴火の前兆と考えられる異常現象は気づかれなかった。

このように噴火前の地震および鳴動は, 神着・坪田両村界に近い山腹および神着部落方面にだけ, とくに明瞭に感じられた局部的なものであった。

1940 年の噴火の経過を記載するに当っては, 初期の山腹噴火とそれに引き続いた山頂噴火との2項に分けて述べるのが適当と思われる。

山腹噴火 : 噴火は, 上述のような前兆現象に続いて, 7 月 12 日午後 7 時 30 分頃, 北東山腹で起こった。 最初の噴火地点は山頂と赤場暁とを結ぶ線上, 神着・坪田両村界の沢の海抜約 200 m の所であった 29) 。 その後, 山腹の熔岩抛出地点は村界線上の海抜 450 m に移動した。 赤場暁湾内の噴火もほゞこの頃に始まった。 幾野方面の噴火もこれらとほとんど時を同じくしたものらしい。 噴火開始と同時に熔岩は村界の沢に沿って流下し出し, 約1時間後には島下部落を覆って赤場暁湾に達した。 噴火は山頂と赤場暁湾とを結ぶ線上の数ヵ所から起こるらしく, 火柱がなん本も認められた。 山腹噴火は地震・鳴動を伴ないつつ, 翌 13 日午後 6 時頃までほとんど連続的に起こり, その後は間歇的になって急速に弱まり, 同月 29 日の海岸における小爆発を最後にほとんど静穏に帰した。

噴火当時現場近くで噴火の経過を詳細に観察したものがいないので, 噴火の中心がどのように移動したか, あるいはそのおもなできごとがどんな順序で起こったかははっきりしない。 赤場暁湾内に形成された岩滓丘(瓢箪山)は, 村界の沢を流下し海中に拡がった熔岩(赤場暁熔岩)が, 完全に流出をやめる以前に, 大部分形成されたものである。 現在同熔岩上には瓢箪山から抛出された火山弾・岩滓はほとんどのっていない。 本多彪・他 14) は種々な情報を総合して, 幾野の火口から噴出しヨリダイ沢を埋めた熔岩流は, 13 日午前 0 時過ぎに流下したものとしている。

山頂噴火 : 7 月 12, 13 日の山腹噴火に引き続いて, 山頂噴火が始まった。 13 日午後, 山頂中央火口丘の大穴火口へ行った人々の言によると, 同火口にはなんら活動の徴候は見られず, 平常通りであった。 翌 14 日朝, そのうちの1人が同火口へ行った時には噴煙があがりつつあり, さらに 15 日午後に中央火口丘の北東側の八丁平に達した時, 大穴火口の方から火山灰の降るのに会った。

津屋弘逵はこれらのことから, 山頂噴火は 13 日から 14 日へかけての夜半に始まったものと想像した。

津屋弘逵によると, 噴火開始の 13 日夜半から 18 日までは, 中央の大穴火口内の新しいピットから猛烈な噴煙を続けたが, 北東方向に多少火山灰を降らせたのみであった。

しかるに 19 日から 20 日にわたって, その活動はさらに火口底(あるいは火口栓)の他の部分を破壊し, 大穴火口からその西隣の上段火口の方に拡がり, 火山灰の他に火口底を構成していたと思われる熔岩の破片および岩屑を抛出した。

21, 22 日には, 山麓においても爆音が頻々と聞かれ, 火山灰の他に岩滓が降下するようになって来た。 この岩滓の噴出は, 中央火口丘雄山の火口底の栓をなしていた旧熔岩および岩屑が, 前日までの爆発によって吹き払われ, 新熔岩柱の頭部が火口に露われたことを示すものと考えられる。

22 日夜半以後, 噴煙は著しく減少し, それに反して爆音は益々頻発し, また「ザー」という鞴を吹くような鳴響が聞かれるようになった。 噴煙が少なく見えるようになったのは, おそらくこの頃すでに火口内に流動状の灼熱熔岩が露われ, 爆発に際してこの熔岩が火山弾として拠出されるようになり, 微細な火山灰として火山ガスとともに噴き上げられることが少なくなったためと考えられる。

24 日から 26 日までの間は, 山頂噴火の最盛期で, 間断なく爆発・鳴響が続いた。 25 日噴火を近距離から観察すると, 大穴火口内にある最初の活動中心 -- 当時は明灰色の噴煙をあげていた -- のほかに, 大穴と上段火口との境界に1ヵ所(第2の活動中心), および上段火口内に1ヵ所(第3の活動中心)の活動中心があった。 第3のものは烈しい空振を伴ないつつ 2, 3 秒置きに灼熱火山弾を抛出しており, 第2のものは幾分長い間隙を置いて黒煙を噴出しつつあった。 この噴煙活動に伴なって時々灼熱していない火山弾が抛出された。

活動の最盛期は 30 日まで続いたが, 31 日以降は活動も弱まり, 8 月 5 日には事実上終熄した。 上段火口を埋めた熔岩は活動の最盛期(7 月 24 日~30 日)に流出したものと想像される。

微動の観測結果についてみても, その発生回数は 7 月 24 日~30 日頃にもっとも多く, その後次第に減少している。 地震は観測の始められた 7 月 14 日頃もっとも多く, その後次第に減少し, 山頂噴火が活溌になり始めた 18 日頃, 一時的に増加したが, その後さらに減少し, 7 月 24 日~30 日頃にはほとんどなかったようである。

噴火開始から 18 日頃までは, 南西風のため噴煙はすべて北東になびき, その後風向が変わり伊豆・伊ガ谷・阿古の3村にも降灰砂があった。 本多彪・他 14) によって噴火後に行なわれた降灰砂調査の結果は第 3 図に示してある。

第 3 図 降灰砂分布図(本多彪・門脇鬨郎・正務章 14) による)。 K : 神着, IZ : 伊豆, IG : 伊ガ谷, A : 阿古, T : 坪田。 数字は厚さ(単位 cm)

赤場暁熔岩の温度測定は, 流出後 3~9 日の間に永田武 15), 20) によって行なわれた。 測定地点は同熔岩噴出地点に近い所で1ヵ所, 島下部落附近で3ヵ所, いずれも熔岩表面に開いた亀裂, あるいは陥没穴の内部に見られる灼熱部分(深さ 0.5~2 m)について行なわれたものである。 測定結果は 850~960゚C の範囲内で, おそらく流出当時は 1,000゚C を超えていたであろう。

噴火後の 1941 年 1 月 31 日から 2 月 26 日までの間に, 陸地測量部 23) で行なった三角再測量の結果, 著しい地形変化が確認された。 三角点の水平移動量は富賀山(三角点 60.4 m)の位置と, 富賀山から小松原(三角点 169.2 m)への方位角とを不変として算出された。 また垂直移動量は, 坪田村での中等潮位の測定値に補正を加えたものを規準とした。 第 4 図および第 5 図にそれらを示す 24), 27) 。 第 4 図には永年変化の影響, および 富賀山(60.4 m)から 小松原(169.2 m)への方位角を不動としたことからくる誤差を取り除いた時の, 水平移動量も記入してある。 第 4 図から分かるように, 噴火裂線の北側にある三角点島下(156.8 m)・風早(330.3 m)などは北へ, 南側の大倉(82.0 m)・賀良野(283.4 m)は南へ移動している。 このことはこの裂線に沿って下方から岩脈が貫入し, 両側の地塊を押し拡げたことを示すものである。

第 4 図 三角点の水平移動(表俊一郎 24), 27) による ; 原図の一部を省略してある)。 破線 : 測量から求ゆられた値, 実線 : 補正を加えた値。 図中左側の尺度は移動量。 To : 富賀山. Ko : 小松原, G : 賀良野, O : 大倉, S : 島下, Kz : 風早。 他の記号は第 3 図と同じ

第 5 図 三角点の垂直移動(表俊一郎 24), 27) による)。 移動量の単位 m

赤場暁湾附近の地形は, 赤場暁熔岩の流入および瓢箪山の形成によって, 著しく変貌した。 噴火前, 噴火直後(1940 年 7 月 20 日前後 ?)および 噴火後4ヵ月(1940 年秋)の地形の変遷は第 6 および第 7 図に示してある。 図から分かるように, 瓢箪山の 海に面する部分は海蝕および小爆発(?)によって著しく破壊された。 このようにして削り取られた砂礫は海水により運ばれて, 熔岩流とアノウ崎との間の海岸を埋めて長さ 400 m, 幅 100 m に及ぶ新しい砂浜を形成した。 また南方に運ばれた砂礫によってサタドー岬にまで達する砂浜が形成された。 瓢箪山自身は時日を経過するに従って沈降し, またその表層部は裂罅を生じつつずりさがるような運動をしていることが, 火後3回行なわれた測量によって確認された 17), 20), 21), 26)

第 6 図 瓢箪山(点を打った部分)および赤場曉熔岩流末端(斜線の部分)の地形図(表俊一郎 17), 20) による)。 噴火直後。 太線は噴火以前の海岸線 (原図の一部を省略してある)

第 7 図 瓢箪山および赤場曉熔岩流末端の地形図(表俊一郎 20) による)。 噴火後4ヵ月。 点を打った部分は砂浜(原図の一部を省略してある)

この噴火による新噴出物の総量は 188.7 × 105 m3 と概算されている 22) 。 この量は 1874 年の噴出物のそれ (160 × 105 m3) にほゞ等しいものであった。

三宅島は 1940 年の噴火以降顕著な火山活動を示していない。 たゞ中央火口丘の火口内に形成された 1940 年岩滓丘の山頂附近から, 弱い噴気が立ち登っているだけである(1958 年 3 月 25 日現在)。

三宅島の西海岸, 阿古部落の西南西約 10 km にある大野原島については, 噴火の記録は残っていない。 たゞ 1956 年 8 月 13 日午前 11 時 30 分頃, 同島大根岩(大根)近傍で熱湯が噴出し, 附近の海水が高温になっているのを同岩附近を航行中の漁船が発見した 37) 。 この噴湯現象は火山活動に関係あるものであろうが, はっきりしたことはいえない。

II.3 岩石の一般的性質

第 2 表 (Table 2) 代表的岩石の化学成分 (Chemical compositions of representative rocks)

三宅島火山は橄欖石玄武岩・輝石橄欖石玄武岩 [ 以下の [注] 参照 ] ・輝石玄武岩・撤欖石輝石安山岩および輝石安山岩の熔岩 および火山枠屑岩によって構成されている。 また無斑晶質岩も見られる。 第 2 表には代表的岩石の化学成分を, 主成層火山・中央火口丘および新期寄生火山の3構成単位に分けて挙げてあるが(No. 1~9), それぞれの単位相互間の岩石記載学的な差異は認められない。

[注]
本説明書では 「輝石」を "pyroxene" の意に, 「普通輝石」を "augite" の意に用いる。

同表の No. 10 に挙げた普通角閃石含有黒雲母流紋岩(原著 20) では斜長流紋岩) [ 以下の [注] 参照 ] の軽石砂(最大径 3 cm に達することがある)は, 三宅島全島にわたりほゞ一様に分布しており, 島の北西部伊豆崎近傍ではやゝ粗粒である。 この軽石砂はその粒径, 層厚などの不変なことから推察すると, 本島にその噴出中心があったとは考えられない。 岩質の類似性 8), 13) および人類遺跡との関係(前節「II.1 地史概説」の [注1] および [注2] 参照)から, この軽石砂は 西暦 838 年の神津島あるいは同 886 年の新島噴火に際して飛来したものと考えられる。

[注]
筆者が, 同一層準の軽石砂層と思われるものを, 野外および顕微鏡下で調べた限りでは, 普通角閃石の存在を確認することができなかった。

No. 11 にあげた普通輝石紫蘇輝石安山岩は, 三宅島の西南西約 10 km にある大野原島熔岩円頂丘を代表するものである。

三宅島火山を構成する岩石は, 富士火山帯南帯 33) に属する他の島火山のそれと同様に, すべてソレイアイト質岩系 36), 41) に属し, カルクアルカリ岩系(紫蘇輝石質岩系) 36), 41) に属するものはみいだされない。 一方, 大野原島を構成する岩石は, カルクアルカリ岩系(紫蘇輝石質岩系)に属するもので, この岩系の岩石に特徴的に見られる いわゆるオートリス(autolith)を局部的に多量に含んでいる。

ソレイアイト質岩系(ピジォン輝石質岩系)の岩石は, 玄武岩質岩漿の結晶分化作用のみによって形成されたものであり, またカルクアルカリ岩系(紫蘇輝石質系)のそれは, 岩漿が花崗岩質岩石(シアル)を同化しつゝ, 結晶分化作用を続けることによって形成されたものであるという, 久野久 31), 33), 36), 41) の解釈を受け入れるならば, 久野久 40) のひいたシアル殻の南限線(大島の北を通り, 利島の東, 神津島の南を通る境界線)は, 神津島の南東方において, さらに南方にのび, 三宅島と大野原島との中間を通ることになろう(第 8 図)。 このような見方をするならば, 三宅島および大野原島の地理的な位置関係は, 地質構造上にも重要な意味をもつものといえよう。

第 8 図 三宅島およびその近傍の海底地形図(海上保安庁水路部発行海図による)。 破線 a~b は久野久 40) のシアル殻の南限線。 等深線の単位 m

II.4 地質各説

II.4.1 三宅島火山

三宅島火山の地史については, すでに地史概説の項で述べた。 こゝで同火山のやゝ詳細な記載をするに当って, 次のような3構成単位に分けて説明するのが妥当であろう。

主成層火山(Main cone)
(A) 主成層火山本体(Main cone proper, MC)
(B) 旧期寄生火山および寄生火口(Older parasitic cone and crater, OP)
中央火口丘(Central cone, CC)
新期寄生火山および寄生火口(Younger parasitic cone and crater, YP)

主成層火山は上記のようにさらに2分し, 主成層火山本体と旧期寄生火山および寄生火口とに分けて説明する。

[ II.4.1.1 ] 主成層火山

(A) 主成層火山本体 : 三宅島火山の大半は主成層火山本体によって構成されている。 本火山を構成するもっとも古い構成単位であるが, 火山体の開析はまだあまり進まず, またその下部は海面下に没しているため, 初期の噴出物がどんなものであるかを知ることはできない。 この主成層火山本体の海に面する断崖は最高 100 m に達するが, この噴出物が現在の島の外縁より遙か外側まで分布しているとは考えられない。 海蝕崖で見られる熔岩および火山砕屑岩は, すべて海側に向かって傾斜していることから, 本火山体は単一の円錐形成層火山であったようである。 また本火山の基盤を構成すると考えられる岩層はどこにも露出していない。

以下便宜上, 主成層火山本体を, 1) 南部地域, 2) 北部地域および 3) 山頂地域の3つに分けて, 主要事項を記述する。

1) 南部地域 : 南部海岸ツル根岬附近の海蝕崖最下位には, 紫蘇輝石普通輝石撤欖石玄武岩熔岩(大型の灰長石斑晶を有する)が露出する。 その上位に直接して, あるいは凝灰角礫岩を挾んで 薄い紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩(まれに鉄鉱斑晶を有する)が覆っている。 この熔岩の上位は 10~20 m の凝灰角礫岩(下位の層準に黒色岩滓層を挾む)が堆積している。 下位の熔岩はツル根岬のすぐ西方で海面下に没するが, 上位の熔岩は断続してさらに西方ココマまで露出している。 ココマではこの熔岩の下位に前とは別種の輝石橄欖石玄武岩が露われる。 この輝石橄欖石玄武岩熔岩は西方に連続して露出し, ココマから海岸沿いに約 0.7 km 行った突端では, この熔岩の上位に3枚の薄い玄武岩熔岩がある。 こゝでもこれら熔岩は厚い凝灰角礫岩に覆われている。 この露頭の上位3枚の熔岩と, 前述の紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩との前後関係は, しかしながら, 不明である。 上位に来る厚い凝灰角礫岩層は, おそらく古澪爆裂火口の(一部は山澪の)抛出物であろう。 これについては後に詳述する。

第 9 図 水溜り爆裂火口南方の海蝕崖(地質図の 331A 地点)。 L : 紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩, S : 岩滓塊(熔岩と同質), B : 類質岩塊, LT : 火山礫凝灰岩, TB : 凝灰角礫岩, BS : 黒色岩滓

ツル根岬北北東約 0.6 km の湾入部で, 最下位の紫蘇輝石普通輝石撤欖石玄武岩熔岩は尖減するが, その上位の紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩は, 途中1ヵ所で途切れるが, 船戸浜西端まで続いて海蝕崖の中位に, あるいは下位に露出する。 道ノ沢の西の小沢の落口附近では, 第 9 図に示したように, この熔岩の下位の黒色岩滓・火山礫凝灰岩・凝灰角礫岩互層を刻んだ谷を, 熔岩と同質と思われる岩滓が埋めている。 この谷の下底に近い所では, 岩滓に混じって太さ数 cm の濶葉樹の天然木炭破片(NI58033103) [ 以下の [注] 参照 ] が多量にみいだされ, また上位には類質火山岩塊が混在している。 これと同様な関係は古澪爆裂火口の北内壁で見られ, 熔岩も同種の岩石である。 この熔岩はさらに北東方船戸浜の西端まで続いて尖減する。 船戸湾西端の坪田浩附近では, 既存の低い海蝕崖を瀑下したような産状を示している。 この附近でもこの熔岩の下位は凝灰角礫岩であるが, ときに本質抛出物と考えられる黒色火山弾も見られる。 熔岩の上位も凝灰角礫岩で, その上位には侵蝕間隙を置いて, 固結度の低い黒色岩滓・褐色火山礫凝灰岩がのっている。 この侵蝕間隙面は坪田部落から港へくだる自動車道路の切割で観察される。

[注]
天然木炭の材質の鑑定は東京大学理学部植物学教室 亘理俊次助教授にしていただいた。

船戸浜の東端近くの海蝕崖に, 凝灰角礫岩層に挾まれてふたゝび紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩が現出するが, 北東に行くに従って海蝕崖は次第に低くなり, 熔岩も海岸線に露出するようになる。 坪田港の東方約 0.6 km では, この熔岩の直下に別の熔岩(撤欖石普通輝石玄武岩)が顔を出している。 この北東で, 前記輝石玄武岩熔岩を覆う火山礫凝灰岩・凝灰岩層中には, ときに水磨された円礫(最大径 0.5 m に達する)が見られ, 汀線堆積物の様相を示している。 これら熔岩・火山砕屑岩層は, 坪田港の北東約 1.3 km の海岸で, 1寄生火口熔岩に覆われている(海岸附近では直接の被覆関係は観察されない)。

第 10 図 水溜り爆裂火口の北西方海抜約 250 m の林道切割(803)。 1 : 暗褐色岩滓(類質岩片も含まれる), 2 : 帶白褐色凝灰岩, 3 : 黒雲母流紋岩輕石小片を含む明褐色ローム, 4 : 暗褐色ローム, 5 : 黒色岩滓, 6 : 暗褐色ローム, 7 : 褐色ローム, 8 : 黒色岩滓

山腹の沢や道路の切割でも, 熔岩や各種火山砕屑岩の累積関係がよく観察されるが, 多くの場合露頭は断片的であって, 横の連続性を確認することは困難である。 多くの露頭の観察を総合すると, 南方山腹に関する限り主成層火山最末期の噴出物は帯白褐色凝灰岩である。 水溜り爆裂火口の北西方海抜約 250 m の林道の切割の模式的スケッチを第 10 図にあげる。 こゝでは帯白褐色凝灰岩の下位に暗褐色岩滓層があり, こゝまでを刻んだ侵蝕面の上に 中央火口丘あるいは寄生火口の噴出物と考えられる未凝固のローム・岩滓がのっている。 この帯白褐色凝灰岩・暗褐色岩滓層は伊ガ谷への林道の切割にも, また北東方への山腹の林道(海抜 300~360 m)の切割にも露出しており, 熔岩は多くの場合この層準よりも下位にある。

第 11 図 大路池南東方バス道路切割(727B)の柱状図。 L : 玄武岩熔岩, l1 : 褐色ローム, sc1 : 褐色岩滓, l2 : 最下位に黒雲母流紋岩輕石砂レンズを含む褐色ローム, sc2 : 黒色岩滓

大路池南東バス道路の切割では柱状図(第 11 図)に示すような関係が見られる。 この南方の海蝕崖には, 古澪爆裂火口抛出物と考えられる厚い凝灰角礫岩層が露出している。 この凝灰角礫岩層は見掛上熔岩の下位にあり, また熔岩の上位にはまったくこれを欠くことから, この熔岩は古澪火口の現形態が形成された後に流下したものであろう。 しかし便宜上この項で記述しておく。

水溜り火口の北北西内壁には, 3枚あるいはそれ以上の玄武岩熔岩を垂直に貫ぬく幅 0.6~1.5 m の岩脈が観察される。 これはおそらく主成層火山の中心火道から派生した放射状岩脈の一つであろう。

2) 北部地域 : 三宅島の北半地域の海に面する断崖は, 南半地域のそれに較べて一般に高い。 海蝕崖の露頭から判断すると, この地域では火山砕屑岩類は熔岩の数~10 倍に達するであろう。 しかし 下根 あこん 崎からホーダイにかけた海蝕崖では熔岩層が優勢のようである。 北部地域の海蝕崖に露出する熔岩は, 主として橄欖石玄武岩・普通輝石橄欖石玄武岩であって, 紫蘇輝石普通輝石玄武岩~安山岩はまれである。 またこの地域の海蝕崖には, 粗大な岩塊を含む無層理に近い火山角礫岩が, レンズ状をなして幾層も認められる。 山頂火口において大規模な爆発的噴火が起こったとしても, このような大岩塊が 3~4 km の距離は飛ばないであろう。 これら火山角礫岩層のあるものは寄生爆裂火口から抛出されたものか, あるいは泥流・山崩れ堆積物であろう。 一つ一つの堆積物についてそれらのいずれであるかを確認できなかった。

阿古部落の北, 海岸沿いの道をやゝ行った所(海岸沿いの道から伊ガ谷への旧道の分岐点よりも北)では, 海面から 10~15 m の高さまで玄武岩熔岩が露出し, その上位に褐色凝灰岩・岩滓互層(0.5~1 m), 成層した火山礫凝灰岩(約 1 m), 無層理の凝灰角礫岩(約 10 m)が順次重なり, さらに上方 40~50 m の海蝕崖の上位まで各種火山砕屑岩が累積している。 この成層した帯白褐色火山礫凝灰岩の成層構造を切って, 直径約 15 cm の炭化していないツバキ(camellia japonicq L.)の樹幹 [ 以下の [注] 参照 ] が斜に埋没している。 この樹幹に接する数 mm の部分の凝灰質基質は灰色に変色している。 この他樹枝が埋れていたと考えられる水平に近い孔が多数認められる。

[注]
樹幹の材質の鑑定は東京大学理学部植物学教室 亘理俊次助教授にしていただいた。

図版 2 伊ガ谷港南端から南西方六双根方面を望む

第 12 図 伊ガ谷港南端から南西方六双根方面を望む。 L : 玄武岩熔岩, TB : 凝灰角礫岩, S : 黒色~赤色岩滓

図版 2 および第 12 図は伊ガ谷港の南端から六双根方面を望んだ, 写真および模式的露頭スケッチである。 第 12 図の a 地点では, 下位から淡橙色軽石凝灰岩(緻密な類質火山岩片を含む)・ 黒色~赤色熔岩餅岩滓集塊岩(driblet agglutinate)・ 淡橙色細粒軽石凝灰岩・ 帯褐白色軽石凝灰岩の順に露出し, さらに厚く凝灰岩・凝灰角礫岩が堆積している。 帯褐白色軽石凝灰岩の軽石は普通輝石紫蘇輝石安山岩で, この種の軽石凝灰岩は北海岸の大久保浜に面する海蝕崖の最下部にも露出している。 軽石凝灰岩中には類質火山岩片のほかに, 三宅島火山の基盤岩層から由来したと考えられる 普通輝石石英閃緑岩塊(直径 15 cm に達するものもある)も見られる。 おそらく爆発的な軽石噴出に伴なって抛出されたものであろう。 また同図の b 地点では, 黒色岩滓・凝灰岩互層を切った断層が見られる。 これら断層はすべて小規模のものであって, 最大のものでも見掛上の落差は 5~6 m である。 このような火山砕屑岩層を切る小規模な断層は他の地点でも観察される。

阿古から伊ガ谷へのバス道路の切割にも, 海蝕崖で観察されると同様な各種火山砕屑岩層(玄武岩熔岩を挾む)が露出している。 長根八幡神社以北では, 海蝕崖で観察されるよりも上位の層準が露出している。 こゝでは, 上位から凝灰岩・岩滓凝灰岩(両者の互層の場合もある), その下位に安山岩熔岩が見られる。 さらにその直接の下位は道路の切割では観察できない。

図版 3 伊ガ谷港北端から北方伊豆崎を望む

第 13 図 図版 3 の a 地点の模式露頭スケッチ。 Sc : 黒色岩滓, T : 擬灰岩, L : 普通輝石撤欖石玄武岩熔岩, VB : 火山角礫岩

伊ガ谷港北端から北方伊豆崎を望んだ写真を図版 3 に, 同図版の a 地点のやゝ詳細な露頭スケッチを第 13 図に示してある。 こゝでは, 下位から各種火山砕屑岩・ 普通輝石撤欖石玄武岩熔岩(1~4 枚)・ 各種火山砕屑岩の順に露出している。 伊豆部落北方の突端から大久保浜へかけての海蝕崖にも同種の岩層が露出し, この地区を全体として見ると, 各岩層は北西に緩く傾斜している。

第 14 図 伊豆部落北東方の海蝕崖(8729B)。 sTB : 層理のある凝灰角礫岩, TB : 無層理の凝灰角礫岩, T : 褐色凝灰岩, Sc : 黒色岩滓, VB : 火山角礫岩, L : 普通輝石橄攬石玄武岩熔岩。 最下位の sTB には黒色本質岩滓をかなりの量含む。 崖の高さ 40~50 m

伊豆部落北東方の海蝕崖で観察される標式的な露頭のスケッチを第 14 図に示す。 この崖の最下位の凝灰角礫岩中には 本質岩片とみなされる黒色岩滓がかなり多量に含まれている。

第 15 図 伊ガ谷部落の北東方約 0.5 km のバス道路切割(807)。 Sc1 : 粗粒岩滓, T1 : 凝灰岩および火山礫凝灰岩, Sc2 : 黒色岩滓, VB : 類質火山角礫岩, T2 : 凝固度の低い凝灰岩

この黒色岩滓層が標式的に露出するのは, 伊ガ谷部落の北東方約 0.5 km にある谷の右岸のバス道路切割であって, こゝでは第 15 図に示すような露頭が観察される。 この露頭で最下位に露出するのが問題の岩滓層であって, 岩滓の最大径は 0.5 m に達する。 下位ほど類質および異質岩片を多量に含み, 上位に行くに従ってその量は急激に減少する。 上位層準でも岩滓に包まれた形で異質岩片が発見される。 これら異質岩片の岩種は 変質した類質疑灰角礫岩・ 高熱変成作用を受けた火山岩・ 変質した紫蘇輝石(?)普通輝石石英閃緑岩などであって, 三宅島火山の基盤岩層から由来したものである。 この岩滓層の上位には凝灰岩・黒色岩滓層をへだてて火山角礫岩があり, そのなかの岩片にも基盤から由来したと思われる変質石英安山岩軽石凝灰岩が見られる。

神着部落にある三宅島測候所の北の海蝕崖では, 下位から凝灰岩・凝灰角礫岩, その上位に普通輝石含有橄欖石玄武岩熔岩・ 凝灰岩・ 撤欖石含有玄武岩熔岩(2枚)が順次累積し, 最上位は凝固度の低い褐色凝灰岩に覆われている。

下根崎よりも南東の海蝕崖では, 火山砕屑岩に較べて玄武岩熔岩の量が次第に多くなり, ミノワ附近では 海蝕崖の下位から半分あるいはそれ以上を熔岩(10 枚に達する)が占めている。

第 16 図 釜ノ尻海岸の円礫砂層露出地。 L1 : 橄欖石玄武岩熔岩(灰長石巨晶を含む), L2 : 紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩, G : 円礫・砂互層, L8 : 普通輝石橄欖石玄武岩熔岩, L3' : 普通輝石橄欖石玄武岩熔岩

またミノワの南東方釜ノ尻海岸では, 第 16 図に示すような関係が観察される。 この附近で最下位層をなすものは灰長石の巨晶を含む橄欖石玄武岩で, その上位に薄い紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩が来る。 これらを覆う円礫層(円礫の最大径は 0.5 m に達する)・砂層互層は 同図 a 地点では 3 m に達し, 紫白色岩滓層(厚さ 0.6 m)・褐色ローム層に覆われている。 このことから, 少なくともこの地区に関する限り, 主成層火山活動中のある時期よりも隆起したといえる。 津屋弘逵 20) はこの礫層中に貝化石の産することを報告している。

3) 山頂地域 : 主成層火山山頂火口(カルデラ)の北内壁も, 玄武岩熔岩および火山砕屑岩の互層によって構成されているのであろうが, 樹木の繁茂が著しいためにはっきりしない。 八丁平からわずかに熔岩の露頭が散見されるに過ぎない。 火口の北外側にあるスオウ穴の東内壁には, 紫蘇輝石普通輝石安山岩熔岩が露出しているが, 前述の玄武岩熔岩との前後関係は不明である。

(B) 旧期寄生火山および寄生火口 : この時期の寄生火山および火口は, 多くの場合後の噴出物に厚く覆われ, 単に地形的にのみそれと判断しうるものが多い。

この時期の寄生火山の最大のものは桑木平寄生火山である。 島の西海岸銹ガ浜の南端から南西海岸薄木に至る海蝕崖に露出する, 橄欖石普通輝石玄武岩・橄欖石玄武岩熔岩および火山砕屑岩層は, 開析程度が著しくないことから, この寄生火山噴出物と考えられるが, 本体を構成する岩層との直接の関係はどこでも観察していない。

主成層火山本体の北半山腹にある寄生火山はすべて小規模のものであり, また寄生火口熔岩と考えられるものでもその噴出点が確認できない。 寄生火山として地形的に判断されるものを以下に列記する。

1) 大般若山 : 東北東山腹, 1940 年噴火によって形成された幾野火口の南方にあって, 海抜約 180 m, 山頂に小火口らしいものを有するが, 後の噴出物に厚く覆われ, 本寄生火山噴出物は露出していない。

2) 丸山および3小火口列 : 北東山腹の海抜 150~230 m の高さにあって, そのうち最大の丸山は火口径 150 m に達する。 この4火口は山頂から放射状の線上に並んで開口している。

3) 二反原および澪ガ平火口 : この両者は大久保の南方山腹に南北に並んで存在する。 二反原は海抜 160~200 m の所にあって, 火口の南北径約 400 m, 東西径約 250 m である。 澪ガ平火口はこの北方, 海抜約 120 m の所にあって, 前者よりやゝ小さい。 この火口は北北西に向かって開口しており, 流出した熔岩は約 100 m の海蝕崖を瀑下して大久保浜に達している。 またバス道路切割では, 本火口から噴出した赤色岩滓質熔岩・赤色岩滓が褐色火山礫凝灰岩に覆われて産する。 本火口噴出物の層準については後述する。

第 3 表 三宅島北半における標準層序

寄生火口から噴出した熔岩 : 主成層火山の北山腹, とくに伊ガ谷からアノウ崎へかけての山腹では, 地表から数 m の範囲内で, 第 3 表に示すような火山砕屑物(あるいは火山砕屑岩)の累積関係が認められる。 伊豆友地のバス道路北側の切割(地質図の 321B 地点)には 明褐色凝灰岩より上位が露出しており, 第 3 表中 * 印を付した褐色凝灰岩と、 その上位の黒色岩滓層との境界面から数 cm 下位の所からは, 縄文後期土器片が出土する。 この地点のごく近くで, 宅地を作るために整地をしたところ, 同一層準から多量の繩文後期土器片・黒曜石片・玄武岩円礫あるいはその破片のほかに, 石皿・石砥・猪の歯・魚骨が出土した。 おそらく繩文時代にこの地に住居が構築されていたのであろう。 産出する土器から, その時代はいまから 3,500~3,600 年前であろうと推定されている。

同表の最上位層準の褐色ローム層中には, 黒雲母流紋岩軽石砂層(横の拡がりは狭く, 露頭では多くの場合レンズ状を呈する)が挾在する。 ある場所では砂層をつくらず, ローム層中に軽石小片が点在するに過ぎない場合もある。 この軽石砂は前にも述べたように, 西暦 838 年の神津島噴火あるいは同 886 年の新島噴火に際して飛来したものであろう。

これら火山砕屑物層の間には, 主成層火山活動, とくに寄生火口活動に際して流出したと考えられる熔岩が挾在している。 以下に下位のものから順次列記する。

1) 澪ガ平熔岩(普通輝石橄欖石玄武岩): 大久保の南にある澪ガ平火口から流出した熔岩で, 第 3 表の最下位の火山礫凝灰岩に覆われていることは, 火口の北側バス道路の切割で観察される。 この熔岩は海蝕崖を瀑下して, 大久保浜に達している。

2) 旧伊豆・神着両村村界の沢およびその東方バス道路切割に露出する熔岩 (普通輝石橄欖石玄武岩): この熔岩は北中腹から流出したと考えられ, 友地人類遺跡附近では第 3 表の明褐色凝灰岩に覆われており, 同表に示した層準に来るものと考えられるが, 下位の火山礫凝灰岩との関係は不明である。 この熔岩はバス道路のすぐ北で停止している。

第 17 図 伊豆小学校附近(320)における柱状図。 L : ほとんど無斑晶の玄武岩, sc1 : 黒色岩滓, t : 帯白褐色凝灰岩, sc2 : 風化した岩滓, l : 褐色ローム(何枚かの暗色火山砂薄層を挾有する), p : 黒雲母流紋岩軽石砂, a : 黒色火山砂, 斜線部 : 暗褐色土壌(第 3 表参照)

3) 伊豆小学校附近に露出する熔岩(ほとんど無斑晶の玄武岩): この熔岩は柱状図(第 17 図)に例示するように, 伊豆小学校附近およびそこから南東方への山道の切割で, 第 3 表の黒色岩滓層以上の火山砕屑物に覆われる。 この熔岩も北西中腹から流出したもので, その末端は伊豆部落までにしか達していない。

4) 姉ガ潟熔岩(橄欖石玄武岩): この熔岩は大久保浜の西端姉ガ潟に流下したもので, その噴出口は二反原火口西方の山腹と推定される。 神着から伊豆へ通ずる新旧道の分岐点のやゝ東方では, 第 3 表の赭色岩滓層に相当する岩滓層(こゝでは風化して褐色を呈する)の上部は 黒色土壌化し, その上をこの熔岩が覆っている。 分岐点から新道(バス道路)を西方に行った道路南側の切割では, この熔岩は 同表の最上位層(灰色火山砂・褐色ローム互層)に相当する 褐色ローム層(厚さ 1 m, 黒雲母流紋岩軽石片を含む)に覆われている。 この熔岩が,少なくとも北山腹の旧期寄生火口熔岩のうちで最新のものである。

このほかにも 伊ガ谷港の北東方約 0.8 km の海蝕崖を瀑下した熔岩(普通輝石紫蘇輝石安山岩), 伊ガ谷部落の沢を流下した熔岩(橄欖石含有玄武岩) およびその南方の第 12 図 c 地点へ谷を埋めて流下した玄武岩熔岩などは, おそらくこの時期のものであろう。

爆裂火口 : 現在地形的に残っている顕著な爆裂火口は, 主成層火山の南半に限られている。 このうち, 南南西麓の新澪爆裂火口は, 新期寄生火口活動の際に形成されたものであるから, この項では述べない。

1) 三池爆裂火口 : 本火口は東麓にあり, 海に向かって開口している。 地形的にみて, 東西に並んだ大小3個の火口からなる複合爆裂火口である。 三池湾の北および南の海蝕崖には, 本火口から抛出された大小様々の類質(まれに異質)岩塊を多量に含む 凝灰角礫岩~火山角礫岩層が露出している。 沖ガ平の北方バス道路切割では, この凝灰角礫岩~火山角礫岩層を切った小断層が見られる。 火口の南縁海抜 120 m の地点では, 凝灰角礫岩層(本火口抛出物)の上に 黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム・黒色火山砂・褐色ローム(全体で厚さ 70 cm), および黒色岩滓(厚さ 15 cm)が順次重なっている。

2) 金層爆裂火口 : 本火口は三池爆裂火口の南西に近接して存在し, 東南東側はわずかに開口している。 長径 900 m, 短径 700 m の火口であって, その南内壁には粗粒火山砕屑岩層が露出している。 本火口は地形的にはかなり開析されている。

3) 水溜り爆裂火口 : 本火口は南南東山腹にある。 火口は長径 1,000 m, 短径 800 m で, 南南東側は開口している。 火口周囲に粗粒火山砕屑岩層の存在を確認することはできなかったが, おそらくこれも爆裂火口であろう。

第 18 図 水溜り爆裂火口内の A~C 岩滓丘見取図。 M : 道ノ沢

火口底の南南西隅には, 北西 - 南東の線上に並んだ A・B ・C の岩滓丘が, またその南南東延長上の火口外に D 岩滓丘が存在する。 A~C 岩滓丘の見取図を第 18 図に示す。 A 岩滓丘には A1・A2 の2火口があり, A2 火口は径 30 m, 深さ 10 m より浅いが, A1 火口は A2 火口をえぐっており, 深さも約 2 m ほど深い。 B 岩滓丘は A・C の中間, C 岩滓丘の北西麓にあって, 南側の B1 火口は径 10 m, 深さ 3~4 m, 北側の B2 火口は径 15 m, 深さ 5 m である。 C 岩滓丘は水溜リ火口底から 7~8 m の高さあり, 火口径は 30 m, 深さ 10 m である。 D 岩滓丘は C とほゞ同じ規模のものである。 これら岩滓丘は後の噴出物に厚く覆われているが, 火口内壁には粗粒岩滓が見られる場合がある。 C 岩滓丘は 新期寄生火山の抛出物と考えられる径 3 cm 以下の黒色無斑晶質岩滓に薄く覆われている。

図版 4 ココマの海蝕崖。 崖の高さ 40~50 m

4) 古澪および山澪爆裂火口 : 古澪爆裂火口は水溜り火口の南西に近接して存在する。 本火口は南北径 1,200 m, 東西径 1,000 m あり, 火口底の南半は大路池によって占められている。 山澪火口は古澪の南に接する小爆裂火口であって, 径 250 m, 深さも約 30 m に過ぎない。 これら火口から抛出された火山岩塊を含む凝灰角礫岩・ 火山角礫岩は南方海蝕崖に厚く露出している。 ココマ(あるいはココマノコシ)の海蝕崖(図版 4)では, 最下位に普通輝石橄欖石玄武岩熔岩が露出している。 その上位に薄い紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩・ 黒色岩滓層(上位は風化している)・ 火山礫凝灰岩が累積している。 火山礫凝灰岩の上位面は侵蝕されており, その上に 古澪・山澪爆裂火口の抛出物である成層構造のはっきりした凝灰角礫岩・火山角礫岩層が 40~50 m の厚さで覆っている。 これら角礫岩中の岩塊はほとんどすべて主成層火山を構成する玄武岩であるが, きわめてまれに径数 cm の貝殻質砂岩片も存在する。

採集し得た貝殻質砂岩片2個のうち, 1個(NI58033105)を鏡下で観察すると, その基質は石灰質であって, そのなかに 径 2 mm 以下の玄武岩片や斜長石・普通輝石・紫蘇輝石・橄欖石等の鉱物片のほかに, 多量の貝殻片・有孔虫殻・種属不明の石灰質遺体が含まれる。 有孔虫には下記のものが識別された(鑑定 : 本所 平山次郎)。

Quinqueloculina sp.
Rotalidae gen. et sp. indet.
Globigerinidae gen. et sp. indet.

第 19 図 コーマの海蝕崖(図版 4)の下部模式スケッチ。 L : 紫蘇輝石普通輝石玄武岩熔岩, S : 黒色岩滓および火山砂, LT : 火山礫凝灰岩, TB : 凝灰角礫岩, a : 角礫, r : 円礫

第 19 図は図版 4 の海蝕崖下部のスケッチである。 火山角礫岩・凝灰角礫岩の下底には, 貝殻・骨片等からなる塊状集合体が散在する(図中で斜線をひいた部分)。 この塊状集合体中あるいはそれに接する角礫岩の凝灰質基質には, 禾本科植物の茎および葉の痕跡が見られる。 また下底近くに限って水磨された円礫が点在している。 これら円礫は汀線堆積物から由来したものであろう。 塊状集合体からは 貝殻のほかに 弥生式土器片・黒曜石片・わずかに加工されたと思われる鹿の角および鳥獣魚骨片が, 杉原荘介 10) および芹沢長介 39) によってみいだされている。

芹沢長介 39) によれば, 出土した土器はその文様・形式等から弥生中期後半の宮ノ台式土器と判定され, その年代はいまから 2,000 年前よりも幾分新しいとされている。 多量の貝殻・骨片を産すること, 出土土器がすべて小破片で復原不能なこと, およびこれら遺物が一続きの層を示さず塊状をなすことなどから判断して, 貝類を捕食後, 無雑作に遺棄したいわゆる貝塚と考えられる。 古澪・山澪抛出物はこの遺跡を覆っている [ 以下の [注] 参照 ] ことから, それらの活動は西暦紀元前後よりは新しい。 本抛出物は 崖の上のバス道路切割で黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム層その他に覆われているから, 10 世紀以降のものではない。 西暦紀元前後から 9 世紀中葉までの間のある時期に, 古澪・山澪爆裂火口は形成されたと考える。

[注]
杉原莊介 10) は「火山噴出物下の遺跡」と考え, 芹沢長介 39) は遺物産出点の多くがたまたま奥行の浅い海蝕洞状をなしていること, 産出層準が一定しないこと(これは観察の誤りである)などから岩蔭遺跡と考えている。

参考として, 芹沢長介によって採集され, 金子浩昌 39) によって鑑定された同遺跡産の動物遺体を次に列記する。

1. 軟体動物
a. 腹足類
Fusinus perplexus (A. ADAMS),ナガニシ
Charonia sauliae (REEVE),ボウンュウボラ
Thais (Mancinella) clavigera (KÜSTER),イボニシ,多
Cypraea tigris LINNÉ,ホシダカラ
Nerita (Theliostyla) albicilla LINNÉ,アマオブネ,多
Turbo (Olearia) marmoratus LINNÉ ?,ヤコウガイ ?
Turbo (Batillus) cornutus SOLANDER,サザエ
Tegula (Chlorostoma) argyrostoma umbilicata (LISCHKE),へソアキクボガイ
Tegula (Chlorostoma) xanthostigma (A. ADAMS),クマノコガイ,やゝ多
Tegula (Omphalius) rusticq (GMELIN),コシダカガンガラ
Tectus (Rochia) conus hirasei (PILSBRY),ベニシリダ力
Patella (Penepatella) stellaeformis REEVE,ツタノハ,多
Patella (Penepatella) optima PILSBRY,オオツタノハ,多
Cellana nigrisquamata (REEVE),カサガイ
Cellana nigrolineana (REEVE),ウシノツメ
b. 斧足類
Ostrea (Crassostrea) gigas THUNBERG,カキ
この他にヒザラガイ類の中間板 1 個
2. 脊椎動物
a. 魚類
Lamna ditropis HUBBS et FOLLETT ?,ネズミザメ ?
Diodontidae gen. et sp. indet.,ハリセンボン科の1種,まれ
d. 爬虫類
Chelonidae gen. et sp. indet.,ウミガメ科の1種
c. 鳥類
Puffinus leucomelas (TEMMINCK),オオミズナギドリ,まれ
不明種,まれ
d. 哺乳類
Sus scrofa leucomystax TEMMINCK,(歯牙および肢骨片),イノシシ
Cervus nippon nippon TEMMINCK,(角片),ニホンシカ
Cetacea sp.,クジラ類,まれ
Tursiopus truncatus truncatus (MONTAGUE),(歯牙),バンドウイルカ,まれ

筆者は芹沢長介記載の遺物産出地点から 30~40 m 南東の海蝕崖の同一層準から, 下記の4種の遺体をみいだした(鑑定 : 本所 大山桂)。

1. 軟体動物, 腹足類
Cellana eucosmia (PILSBRY),ベツコウガイ
Collisella grata (GOULD),カモガイ
2. 節足動物, 甲殻類
Mitella mitella (LINNÉ),カメノテ
3. 脊椎動物, 鳥類
不明種

5) 阿古部落南東方の爆裂火口 : 本火口は西海岸の阿古部落の南東方約 1 km にある。 火口の長径(北西 - 南東径)800 m, 短径(北東 - 南西径)650 m であって, 北西に向かって開口している。 北東内壁の中位には玄武岩熔岩が露出し, また南内壁の林道切割では本火口から抛出された粗粒~細粒火山砕屑岩層が露出している。 なかには 汀線堆積物であったろうと考えられる水磨された円礫をやゝ多く含む岩滓層も見られる。 このことは岩滓噴出に伴なって古い汀線堆積物をも抛出したことを示すものである。

これらやゝ大型の爆裂火口のほかに, 主成層火山の山頂火口壁のすぐ外側から北へ並んだ スオウ穴・ミソド穴・コシキ穴・大穴の小爆裂火口がある。 これら4火口は相接しており, 接する部分の火口壁は一部欠除している。 それぞれの火口の火口底は平坦であって, 北方のものほど火口底は低い。 この火口列の東および西側には, 多量の類質火山岩塊が抛出されている。 スオウ穴の南方, 主成層火山山頂火口内側の中央火口丘熔岩はこの抛出物に覆われていない。 ミソド穴の南西隅には, 類質火山岩塊を混じえる粗粒の黒色~赤色岩滓が多量に堆積している。 本岩滓は 長さ 5~6 mm の灰長石および 長さ 2~4 mm の橄欖石斑晶を有する橄欖石紫蘇輝石普通輝石安山岩であって, 分布および粗粒なことから, ミソド穴あるいはスオウ穴の噴出物であろう。 またミソド穴とコシキ穴との境附近の火口底では, 黒色火山灰層・暗褐色火山灰層に覆われた褐色ローム層中に, 黒雲母流紋岩軽石砂薄層が挾在するのが観察される。 しかしながら, 本火口群からの抛出物との直接の関係は不明である。

岩石の記載 : 主成層火山を構成する岩石(熔岩流・岩滓および軽石)は ソレイアイト質岩系の橄欖石玄武岩(久野久 31) の鉄苦土珪酸塩鉱物の組合せの記号で表わせば Ⅲb→c, Ⅲc; 以下同様)・ 普通輝石橄欖石玄武岩(Ⅳb→c, Ⅳc)・ 紫蘇輝石普通輝石橄欖石玄武岩(Ⅴc)・ 普通輝石玄武岩(Ⅹc)・ 紫蘇輝石普通輝石玄武岩(Ⅴc)・ 無斑晶玄武岩(c)・ 橄欖石紫蘇輝石普通輝石安山岩(Ⅴc)および 紫蘇輝石普通輝石安山岩(Ⅴc)である。 その主体を占めるのは, 20~30 容量 % の斜長石(灰長石~亜灰長石)および 5 容量 % 以下の鉄苦土珪酸塩鉱物(橄欖石・普通輝石および紫蘇輝石) の斑晶を有する玄武岩である。 玄武岩~安山岩を通じて無斑晶岩は乏しい。 熔岩流だけをとってみた場合, 早期のものは比較的苦鉄質であり, 晩期のものはやゝ珪長質である。 しかし例外がない訳ではない。

代表的な岩石, とくに化学分析を行なったものについて, 以下に簡単に記述する。

橄欖石玄武岩(NI57081006): 山頂火口内壁, 土佐からの登山道が火口縁をよぎる地点のやゝ西方,主成層火山本体熔岩。

斑晶 : 斜長石(灰長石)・橄欖石
斜長石は一般に清澄であって, 単斜輝石・鉄鉱およびガラス小粒の包有物を含むものは少ない。 橄欖石は常に単斜輝石縁を有し, またその内側に紬粒鉄鉱縁が発達することが多い。 微斑晶状のものでは, 中核をなす橄欖石がほとんど完全に細粒鉄鉱に置換されている。
石基 :
中粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱および少量のクリストバル石からなる。

普通輝石橄欖石玄武岩(NI57073001) : 西海岸阿古部落北はずれの北方約 0.5 km 海蝕崖, 主成層火山本体熔岩(図版 I-1)。

斑晶 : 斜長石・橄欖石・普通輝石
斜長石(灰長石~亜灰長石)が清澄で, 包有物を含むものが少ないのは, 前述の岩石と同じである。 橄欖石(αmin. = 1.694, βmax. = 1.731, Fo69 Fa31~Fo63 Fa37)は常にピジォン輝石縁を有するが, 鉄鉱縁の発達は見られない。 普通輝石斑晶は他のものに較べて小型であり, またその量も少ない。
石基 :
やゝ粗粒で, 斜長石(亜灰長石~曹灰長石)・単斜輝石および鉄鉱からなる。 これら鉱物の間を きわめて微細な鉄鉱を含むガラスおよび珪長質メソスタンスが充たしている。 このような所には, 微小針状の燐灰石が存在する。 石基単斜輝石は主として普通輝石(2 V (+) = 45°)であるが, 普通輝石の中核を占めてピジォン輝石(2 V (+) = 0°)も少量存在する。 やゝ大型に成長した鉄鉱はオフィティックに斜長石および単斜輝石を含んでいる。

この岩石の化学分析値は第 2 表 No. 1 に示してある。

紫蘇輝石普通輝石玄武岩(NI57072401): 南東岸船戸浜東部の海蝕崖, 主成層火山本体熔岩。 この熔岩は船戸浜の東部から北東方へ約 1 km の間, 大体連続して露出している。 この熔岩は下位の凝灰角礫岩の侵蝕面を覆っており, 坪田港の東方約 0.5 km では, その直下に橄欖石普通輝石玄武岩熔岩が見られ, またその附近で走向 N 55°W, 最大幅 1.5 m のやゝ不規則な岩脈(輝石橄欖石玄武岩)に貫ぬかれている。 これと同種の熔岩は, 船戸浜の西端から南西方へ約 1 km の間の海蝕崖およびツルネ岬附近にも分布する。

斑晶 : 斜長石・普通輝石・鉄鉱・紫蘇輝石
斑晶として長さ 0.3~2 mm の清澄な亜灰長石, 長さ 0.2~0.5 mm の普通輝石(2 V (+) = 45~50°, r > v)・ 紫蘇輝石(2 V (-) = 58.5°, r > v; きわめて少量)および径約 0.1 mm の鉄鉱(チタン磁鉄鉱であろう)が存在するが, その量は全体で数容量 % 以下である。 紫蘇輝石は常に単斜輝石縁に包まれている。 鉄鉱は輝石に包まれて, あるいは輝石とともに集合斑晶をなして産することが多い。
石基 :
細粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱およびこれら鉱物の間を充たす無色~褐色ガラスからなる。 この基質ガラスのなかには, 微粒の不明鉱物のマイクロライトが多量に含まれている。

この岩石と津屋弘逵 12) の論文に記載されている標本 No. 87 [ 以下の [注] 参照 ] とは, 同一熔岩から採集されたものと思われる。 津屋弘逵によれば, この岩石は斑晶として 亜灰長石(劈開片上の n1 = 1.572, Ab16 An84)・ 普通輝石(2 V (+) = 49~47°, n1 on 110 = 1.698)・ 紫蘇輝石(2 V (-) = 72°)および磁鉄鉱を有し, その石基は斜長石・輝石・磁鉄鉱・鱗珪石および少量のガラス充塡物からなる。 この岩石の化学分析値は第 2 表 No. 3 に示してある。 磁鉄鉱斑晶を少量ではあるが含んでいることから想像されるように, 安山岩質である。

[注]
No. 87 の項に記載された複輝石玄武岩熔岩は2個あり, その1つは坪田部落の北東方約 2 km の地点で採集されたものであり, 他の1つは同部落の海蝕崖で採集されたものである。 こゝでいう標本 No. 87 とは後者のことである。

橄欖石普通輝石玄武岩(NI58032307): 北西海岸伊ガ谷部落の北東方約 0.5 km バス道路切割, 主成層火山本体の岩滓層中の岩滓(前述の第 14 図および第 15 図を引用した記載参照)。 この岩滓は肉眼的には灰黒色多孔質で, 長さ約 5 mm の灰長石・橄欖石および長さ 1 cm 以下の石質岩片をやゝ多量に含んでいる。

斑晶 :
鏡下では, 上記の灰長石・橄欖石のほかに, 小型(長さ約 0.6 mm)の斜長石(亜灰長石)・橄欖石・普通輝石および 少量の鉄鉱(径約 0.3 mm)が存在する。 斜長石は清澄で, 包有物はきわめて少ない。
石基 :
細粒で, 斜長石・単斜輝石およびそれらの間を充たすガラス(?)からなる。 このガラス基質は鉄鉱その他微細鉱物を多量に含み, 黒褐色不透明に近い。

普通輝石紫蘇輝石安山岩(NI57080603): 北海岸大久保浜切割, 主成層火山本体の軽石層中の軽石。

斑晶 :
亜灰長石~中性長石(γmax. = 1.580, αmin. = 1.553; Ab19 An81~Ab53 An47)・ 紫蘇輝石(γmax. = 1.710; En63 Fs37)・ 普通輝石(αmin.≒ 1.690)および鉄鉱
石基 :
無色ガラス

包有物として 長さ約 0.1 mm の柱状斜長石・ 角閃石(淡黄~赤褐色の多色性を示し, cΛZ ≒ 0°; 酸化角閃石か ?)および石英、 鉄鉱からなる岩石の微小片(径 0.5 mm)を含む。 これはおそらく外来のものであろう。

黒雲母流紋岩(NI57080702): 北西海岸伊豆崎灯台の北方約 0.3 km の切割, 最上位の暗褐色ローム層中の下位層準に点在する軽石。 この軽石は 西暦 838 年の神津島あるいは同 886 年の新島噴火に際して飛来した と考えられるものである。

斑晶 :
中性長石~灰曹長石(γmax. = 1.558, αmin. = 1.535; Ab58 An42~Ab86 An14)・ 石英・黒雲母(β = 1.642, 2 V (-) = 0~10°(r < v), やゝ変質している)および鉄鉱
石基 :
無色ガラス

[ II.4.1.2 ] 中央火口丘

図版 5 705.8 m 三角点附近から西方雄山中央火口丘を望む。 右手は主成層火山火口北内壁

中央火口丘は主成層火山の山頂火口の南に偏して存在する(図版 5)。 中央火口丘熔岩は北では高い火口壁にさえぎられて, 壁下で停止しているが, 南では低い火口壁を越えて外方まで流下している。 その外縁を野外で確定できなかったので, 地質図では単に模式的に示してあるに過ぎない。 中央火口丘の北東および西麓では, 火口壁の低凹所を越えて熔岩が流下した状態がよく観察される。 西方へ流下した熔岩は伊ガ谷からの登山道海抜 600 m 附近で, 黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム層を覆っている。 このことから, 中央火口丘主体を形成した活動の, 少なくとも一部は, 9 世紀後半あるいはそれ以後も続いたものであろう。 もちろん歴史時代の新期寄生火山および寄生火口の活動(例えば 1763~1769 年, 1940 年の活動)に伴なって山頂噴火も起こったが, 中央火口丘主体の形態を著しく改変するような爆発, あるいは大規模な熔岩流出はなかったと思われる。

中央火口丘の山腹は, 多くの場合, 新しい岩滓に覆われているが, 北西部では少なくとも2枚の熔岩流が識別される。 また北山麓八丁平の低凹所には, 帯紫灰色の粘土層に薄く覆われたところがある。 この粘土層はおそらく一時的に生じた水溜り, あるいは池に沈澱したものであろう。

中央火口丘の山頂火口は東西に並んで3個あるが, もっとも西側の火口は 1940 年の噴出物によって, ほとんど完全に埋め尽されてしまっている。 もっとも東側の火口(中段火口)の火口底および北部火口壁は, 1940 年の活動に際して噴出された玄武岩岩滓・火山弾および類質火山岩塊によって, まったく覆われているが, 火口壁東部および南部には岩滓質玄武岩熔岩が露出している。 またこの火口の西部は中央の大穴火口によってえぐり取られているため, その内部構造がよく露呈されている。 大穴火口に面するこの断崖で観察すると, 中段火口底をなす部分は, 厚さ 20 m に達する柱状節理の発達した, 緻密でやゝ粗粒な熔岩によって構成されているが, 南内壁部では火山餅岩滓集塊岩状の岩石に移化して火口縁にまで達している。 これらの事実から, 中段火口活動の最盛期には, 火口を充たした熔岩湖面は火口縁近くまで上昇し, しきりに熔岩が外斜面に溢流したが, 活動が弱まるとともに熔岩湖面は現在の火口底の高さまで急速に沈下し, この位置で比較的ゆっくりと冷却固結したものと考えられる。 大穴火口南内壁上部には2~3枚の熔岩が露出しているが, 中段火口底を占める熔岩との関係は不明である。 中段火口縁に露出する岩滓質玄武岩熔岩は, この火口の南東側にある寄生火口 (おそらく後述のベンケ根岬熔岩噴出に伴なって形成された火口の1つであろう) から噴出した火山弾に覆われており, また火口縁南部では, 出所不明の火山弾に覆われている。

図版 6 雄山中央火口丘の大穴火口北内壁

第 20 図 雄山中央火口丘の大穴火口北内壁。 前景は 1940 年抛出物。 L1, L2, L8 : 玄武岩熔岩, T : 凝灰岩, Sc : 岩滓, 斜線部 : 著しく硫気変質作用を蒙つた部分

中央火口丘の大穴火口北内壁には, 図版 6 および第 20 図に示すように, 熔岩・火山砕屑岩互層がよく露出している。 下位から 玄武岩熔岩(L1)・ よく成層した凝灰岩と岩滓との互層・ 玄武岩熔岩(L2)・ 岩滓質玄武岩熔岩(L3)であって, 最上部は 1940 年噴出物に覆われている。 この内壁下部の岩石は硫気変質作用を豪っており, とくにその作用の著しい所では, まったく白色粘土化している。

もっとも西側にあった上段火口は, 1940 年の活動で噴出された岩滓および熔岩によって, ほとんど完全に埋め尽されてしまったため, その火口内壁の状態は現在知ることができない。

中央火口丘の南西中腹には, 山腹斜面の単調さを破る1小寄生火口がある。 現在ほとんど 1940 年の抛出物に覆われているが, 火口縁附近にのみ わずかに本火口から抛出されたと思われる赭色岩滓(普通輝石含有橄欖石玄武岩)が 露出している。

1940 年の活動に際して, 大穴火口から上段火口にかけて形成された岩滓丘および上段火口を埋めた熔岩については, この項では触れない。

岩石の記載 : 中央火口丘を構成する岩石(熔岩流および火山弾)は 橄欖石玄武岩(Ⅲc)・ 普通輝石橄欖石玄武岩(Ⅳc)・ 無斑晶質玄武岩および紫蘇輝石普通輝石玄武岩(Ⅴc)である。 ガラス質の標本しか採集できないため, 石基の鉱物組合せによる岩型の分類が不可能なものもある。

大穴火口の東壁を構成する熔岩(すなわち中段火口底をみたした旧熔岩湖熔岩を代表する)は 普通輝石含有橄欖石玄武岩(Ⅳc)であって, 津屋弘逵 12) の論文で中央火口丘熔岩の代表者として記載された岩石の1つ (津屋弘逵の標本番号 No. 88 の前半に記載されている)はこれである。 同火口北壁には火山砕屑岩層と互層して3枚の熔岩が露出している。 下位から橄欖石玄武岩・普通輝石橄欖石玄武岩・紫蘇輝石普通輝石玄武岩の順である。 最上位の Ⅴc 型玄武岩は鉄鉱(チタン磁鉄鉱)斑晶を有し, 主成層火山の Ⅴc 型玄武岩(NI57072401, 前述のもの参照)と類似の岩質を示すが, やゝ斜長石斑晶に富む。

熔岩のなかには, 局部的に噴気による変質作用を受けているものがあり, 例えば 火口原の八丁平東端に分布する 橄欖石玄武岩熔岩(NI57081007)の斑晶斜長石はほとんど完全に, あるいは-部蛋白石化している。 石基も著しく変質している。

中央火口丘熔岩および火山弾は, その岩質の点で, 主成層火山を構成する岩石ととくに差異は認められないから, こまかい記載はこゝでは省略する。 C. Bacher [ 以下の [注] 参照 ] が中央火口丘の「普通輝石安山岩」熔岩と記載した岩石の化学分析値は, すでに第 2 表 No. 4 に示してある。

[注]
筆者は原論文 (Bacher, C. : Über die Laven der Kleineren Izu-Inseln. Ein Beitrag zur Petrographie Japans. München, 1914)を参照することができなかったので, Tsuya, H. 12) の論文中の引用によった。

[ II.4.1.3 ] 新期寄生火山および寄生火口

こゝで新期寄生火山および寄生火口と呼ぶものは, 歴史時代の噴火活動および それに準ずる比較的新しい時代の活動によって形成されたものをいう。 一般に後の噴出物に覆われることが少なく, 海岸に分布する熔岩でも比較的容易にその噴出口まで辿ることができる。

地質図では, 主成層火山南西山腹の桑木平およびその近傍の火口から抛出され, 南西~西山腹を広く覆った岩滓はこまかい時代区分をすることができなかったので, YPs として一括した。 岩滓の岩質は無斑晶質玄武岩である。 この岩滓堆積物中にはまれに類質玄武岩片が認められる。 また凡例が繁雑になるのを避けるため, 時代未詳, 1643年(?), 1763~69 年(?)および 1811 年(?)の活動に際して形成された, 岩滓丘あるいは降下岩津堆積物帯(裂線に沿って配列した小火口群から抛出され, その近傍に堆積した岩滓および熔岩餅に覆われた地帯)は YPsc として一括し, その説明はそれぞれの時代の熔岩流の項につけ加えてある。 1643 年(?)および 1712 年(?)熔岩流は ともに新澪爆裂火口の抛出物(1763~69 年(?), YPtb)に覆われていることから YP2 として一括した。 1763~69 年(?)の噴出物は いま述べた新澪抛出物(類質疑灰角礫岩, YPtb)と, それを覆う熔岩流(YP3)とに分けて塗色した。 1874 年および 1940 年の噴出物は岩石学的性質が類似することから一括し, たゞ他と同様に岩滓(YP6s)と熔岩流(YP6l)とを区別して示した。

1) ベンケ根岬熔岩(時代未詳)(YP1)

主成層火山の東南東麓, ベンケ根岬附近に分布する熔岩, および中央火口丘の中段火口とベンケ根岬とを結ぶ裂罅上に配列する, 小火口群から抛出された岩滓をベンケ根岬熔岩と呼ぶ。 この西北西から東南東にのびる裂線上に開口した, 大小約6個の火口(そのうちの1個は中央火口丘中段火口の南東外側にある)から, その噴火の初期には旧火山体を破壊した岩塊を, 次いで初生の岩滓をかなり多量に抛出した。 海抜 450 m 附近にあるこの火口群中最大の火口の南縁には, 大型の類質岩塊がのっている。 熔岩の流出は岩滓抛出がまだ持続している間に起こったものである(第 21 図)。 その主流は東南東へ流れ, 扇形に拡がって海中に達した。 またその一部は東流し, 金層爆裂火口底の南半を埋めた。 熔岩主流の南縁には,大型火山弾を含む厚い岩滓層の露頭が見られるが, これはこの活動に伴なって形成された岩滓丘の堆積物であろう。 しかし現在では, この岩滓丘の形態は不明確である。 第 21 図で示したように, 本熔岩噴出の年代は 9 世紀後半あるいはそれより新しいことは間違いないであろう。 また詳細な噴火記録が記載され始めた 1643 年の噴火よりは古い時期のものであろう。

第 21 図 283.4 m 三角点の東南東方約 0.7 km の林道切割(8802)の柱状図。 lt1 : 層理のある灰色火山礫凝灰岩(固い), lt2 : 火山礫を含む褐色ローム(黒雲母流紋岩軽石小片を含む), a : 黒色火山砂, 斜線部 : 土壌(褐色ローム), Sc および L : ベンケ根岬岩滓および熔岩流

この噴火は, 活動様式の点からみると, 後述する 1940 年の噴火のそれとまったく同じであり, また噴火活動の規模は 1940 年のそれと同等あるいはやゝ大規模であったと想像される。 抛出された岩滓は南方坪田部落までかなりの量降下している。

ベンケ根岬熔岩の南方にも1小熔岩流が分布している。 坪田部落の北東方約 1 km の神社跡附近が噴出地点であって, 東南東流して海中に達している。 上述の熔岩とやや岩質を異にするが, その噴出時代は野外の調査からほゞ同時期と考えられるので, 便宜上一括してこの項で述べた。

岩石の記載 : ベンケ根岬熔岩(熔岩流・岩滓および火山弾を包括する)は噴出地点のいかんを問わず, すべて無斑晶質玄武岩である。 代表としてベンケ根岬の南西海岸に露出する熔岩を記載する。

無斑晶質玄武岩(NI57072408): 東南東海岸ベンケ根岬の南西方約 250 m, 熔岩流の南西縁(図版 I-2)。

斑晶 :
長さ約 1 mm の小型斜長石(灰長石~亜灰長石)が少量存在する。 斜長石は包有物少なく清澄で, より曹長石成分に富む斜長石によって薄く囲まれている。 このほかに微斑晶状の橄欖石(単斜輝石縁を有する)が少量存在する。
石基 :
中粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱およびこれら鉱物の間を充たす淡褐色ガラス (粒状のマイクロライトを多量に含み汚濁している)からなる。

この岩石の化学分析値は第 2 表 No. 5 に示してある。

ベンケ根岬の南方の1小熔岩流(普通輝石含有橄欖石玄武岩)は, 斑晶として斜長石以外に少量の橄欖石および普通輝石を有する点を除けば, 岩質は類似したものである。

2) 桑木平およびその近傍から噴出された熔岩および火山砕屑物

2a) 阿古熔岩(1643 年? [ 以下の [注] 参照 ] )(YP2): 主成層火山の西麓, 現在の阿古部落のある台地をつくる熔岩を阿古熔岩と呼ぶ。 この熔岩は桑木平附近にある火口(現在その位置を確認することはできない)から噴出, 当時の沢に沿って北西流し, 現在の阿古部落背後の主成層火山山麓の海蝕崖を瀑下して, 海中に熔岩デルタを形成した。 途中で分岐し, 1つ南の沢に流入したこの熔岩の1支流は, しかしながら, 海岸に達することなく, 阿古部落の南南東方約 0.4 km の地点で停止してしまっている。 沢を埋めた熔岩流の最大幅は約 100 m であり, その厚さは数 m 以下と想像される。

[注]
噴出年代については, 三宅島火山噴火活動史 (II.2 有史時代における三宅島火山の活動記録)をも参照してほしい。

阿古熔岩と他の火山噴出物との関係は, 熔岩主流と支流との分岐点の南東方約 0.2 km の林道切割(315B)で観察することができる。 こゝでは, この熔岩の上位に黒色岩滓・褐色ローム・類質火山礫が順次累積している。 全体の厚さは約 30 cm である。 最上位の類質火山礫層は野外における火山噴出物の累積関係の追跡から, 新澪爆裂火口抛出物であることはほゞ間違いないであろう。 またこの熔岩の下位には, 岩滓・火山砂層をへだてて, 黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム層が存在する。 以上の事実から, 阿古熔岩流出の時期は 9 世紀後半以降, 新澪爆裂火口の形成(古記録から判断すると, 1763~69 年の噴火活動によって形成されたと考えられる)以前であるといえよう。

岩石の記載 : 阿古熔岩は, 肉眼的には, 全体を通じて一様な無斑晶質玄武岩である。

橄欖石普通輝石含有玄武岩(NI57073005): 阿古部落北端海蝕崖, 熔岩。

斑晶 :
少量の小型(長さ約 0.8 mm)の斜長石およびさらに少量, かつ小型(長さ約 0.4 mm)の橄欖石・普通輝石からなる。 普通輝石中に径 0.06 mm の鉄鉱が含まれる。
石基 :
中粒~細粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱・クリストバル石およびマイクロライトを含むガラスからなる。

2b) 今崎熔岩(1643 年 ?)(YP2): 阿古部落の南東端から今崎を径て, 錆ガ浜の北端に至る海岸地域に分布する熔岩を今崎熔岩と呼ぶ。 この熔岩は今崎の東方約 1.4 km にあるコシキ岩滓丘の西麓から流出し, 西流して海岸に達し, 扇形に拡がった。 熔岩流の最大幅は約 200 m, もつとも厚い所で数 m であるが, 海中に達した熔岩の厚さは 10 m を超えるであろう。 コシキ岩滓丘は山麓からの高さ 20~40 m, その火口は直径約 150 m, 深さ 20~30 m である。 火口の南西壁下では, この岩滓丘を構成する赭緒色岩滓が暗褐色ロームに覆われている。

今崎熔岩と下位の火山噴出物との関係は, 錆ガ浜の北端その他で観察される。 錆ガ浜の北端では, この熔岩は附近の寄生火山抛出物と考えられる凝灰岩・凝灰角礫岩層を覆っている。 これら火山砕屑岩は成層構造を有しており, また凝灰角礫岩は類質火山礫のほかに, やゝ多孔質の本質火山礫(苦鉄質普通輝石安山岩)をも含んでいる。 この熔岩を覆う火山噴出物があるかどうかは野外で確認できなかった。

岩石の記載 : 今崎熔岩は, 肉眼的には, 全体を通じて一様な無斑晶質玄武岩である。

無斑晶質玄武岩(NI57073006): 今崎の北東方約 0.5 km, 熔岩。

斑晶 :
少量の小型斜長石(灰長石~亜灰長石)および少量の小型普通輝石からなる。 普通輝石は斜長石とともに集合斑晶を構成している。
石基 :
粗粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱・粒状マイクロライトを含む淡褐色ガラスおよび クリストバル石からなる。

この岩石の化学分析値は第 2 表 No. 6 に示してある。

この熔岩と一続きと考えられる熔岩(コシキ岩滓丘の西北西方約 0.3 km の地点で採集) の1標本(NI58031906)では, 鉄鉱(チタン磁鉄鉱)斑晶がやゝ顕著に認められる。

2c) 錆ガ浜熔岩(1643 年 ?)(YP2): 阿古部落の南方, 錆ガ浜南端の港(1958 年 3 月現在構築中)に露出する熔岩を錆ガ浜熔岩と呼ぶ。 この熔岩は主成層火山体に刻まれた沢に沿って流下し, 海岸にまで達したものである。 海岸から東方へ穴ニツ寄生火山の北麓まで, この熔岩は追跡することができるが, その噴出地点ははっきりとは確認できない。 熔岩流の長さは約 2 km, 最大幅は約 250 m である。 上位の火山噴出物との関係は, 海岸近くのバス道路で観察され, こゝではこの熔岩は 類質火山礫を含む薄い褐色ローム(新澪爆裂火口抛出物と考えられる)に覆われている。 この熔岩流のすぐ南, バス道路から東方約 0.2 km の地点では, 第 22 図の柱状図に示すような関係が観察される。 最上部の類質火山礫を含む褐色ローム層(厚さ 35 cm)は, 前述した熔岩を覆うそれと同一層準のものであり, その下位の岩滓層(上位の褐色ロームを含めて厚さ 1.2 m)は 熔岩の下位に覆在するものと考えられる。 この岩滓層のさらに下位には, 黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム層(厚さ 10 cm)が来る。 このような野外での事実から, 錆ガ浜熔岩は 9 世紀後半よりも新しく, 1763~69 年よりも古いといえよう。

第 22 図 錆ガ浜南端バス道路の東方約 0.2 km の地点の切割(8801A)の柱状図。 斜線部 : 褐色ローム, * 印の褐色ローム層中には黒雲母流紋岩軽石小片を含む, lp1 : 火山礫簿層, SC1 : 風化した岩滓, SC2 : 岩滓, lp2 : 火山礫を含む褐色ローム

岩石の記載 : 錆ガ浜熔岩は, 肉眼的には, 全体を通じて一様な無斑晶質玄武岩で, その鏡下での特徴は, 鉄鉱斑晶がきわめてまれに含まれるという点を除いては, まったく阿古熔岩と同一である [ 以下の [注] 参照 ]

[注]
鉄鉱斑晶はきわめて少量であるため, 阿古熔岩の薄片には, たまたま含まれなかったものと考えられる。

2d) 上コシキ寄生火山熔岩(1643 年 ?)(YP2): この寄生火山はコシキ寄生岩滓丘の南東方, 同岩滓丘を囲む爆裂火口縁上にある。 その規模はコシキ岩滓丘とほゞ同じで, この寄生火山の南麓を通る道路の切割には, この火山から抛出されたと考えられる厚い岩滓層が露出している。 岩滓の平均径は数 cm であって, かなり粗大な感じを与え, また紡錘形火山弾も認められる。 この地点から道路をしばらく登った所の切割(315A)では, 上コシキ火口から抛出されたと考えられる岩滓層の下位に, 黒雲母流紋岩砂からなるレンズを含む黄褐色ローム層(厚さ 8 cm)がある。 上コシキ寄生火山は岩滓のみを抛出したのではなく, 少量の熔岩も流出したらしい。

この寄生火山を構成する岩滓・火山弾および流出した熔岩流は, 阿古熔岩と同様な無斑晶質玄武岩である。

2e) 新鼻熔岩(1712 年 ?)(YP2): 主成層火山南西麓の東山から薄木へかけての海岸に露出する熔岩を新鼻熔岩と呼ぶ。 この熔岩は大部分新澪爆裂火口抛出物に覆われているため, 野外でその噴出地点まで追跡するのは困難である。 おそらく桑木平寄生火山に開いた火口から流出し, 南方へ流下して海中に達したものと判断される。

この熔岩は, 例えば東山部落附近のバス道路切割で見られるように, 常に類質疑灰角礫岩層に直接覆われている。 また東山の東方約 0.3 km のバス道路(323A)では, 上位から平均径約 2 cm の無斑晶質玄武岩岩滓(厚さ 30 cm), 最下部に黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム(厚さ約 60 cm), 凝固度の低い褐色岩滓凝灰岩の順に累積した露頭が観察される。 近接して露出する新鼻熔岩上には最上位の岩滓すらのっていない。

岩石の記載 : 新鼻熔岩は, 肉眼的には, 全体を通じて一様な無斑晶質玄武岩である。 薄木部落南方の海岸に露出する熔岩をその代表者として記載する。

橄欖石含有玄武岩(NI57072710): 薄木部落南方海岸, 熔岩。

斑晶 :
少量の小型斜長石およびさらに少量の小型橄欖石からなる。 これらのほかに微斑晶どして, 普通輝石および橄欖石がやゝ多量に含まれる。 斑晶および微斑晶の橄欖石は常に単斜輝石縁を有し, 小型のものほど中核の橄欖石は微粒鉄鉱に置換されている。
石基 :
細粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱およびこれら鉱物の間を充たすガラスからなる。

2f) 新澪爆裂火口抛出物(1763~69 年 ?)(YPtb): 新鼻の北方約 0.7 km にある新澪の周縁には, 最大径 2 m に達する大岩塊を含んだ類質疑灰角礫岩が分布している。 この凝灰角礫岩中の岩塊の大きさは, 新澪から遠ざかるに従って小さくなり, また層厚も薄くなることから, 新澪から抛出されたものであることは疑いない。 この新澪爆裂火口の近くでは, 大岩塊が累々と地表に横たわり, 噴火の烈しかったことを生々しく示している。 その厚さは池の北壁で 10~15 m, 凝灰角礫岩の基質は凝固している。 新澪の抛出物は東方約 0.7 km のバス道路附近にはすでに認められないが, 北方および北西方へは 2.5 km あるいはそれ以上の遠方にまで分布している。 新澪の西北西方約 1.7 km, バス道路の切割では, この抛出物層はこの地域の最上層を構成しているが, 層厚はわずか 25 cm, 未凝固の暗褐色ローム中に径数 cm 以下の類質火山礫が見られるに過ぎない。

地質図では, 模式的に新澪抛出物の分布範囲を示しているに過ぎない。 露頭があまりないため, はっきりしたことはいえないが, 境界線におけるその層厚は数 10 cm~1 m 程度である。 もちろんすでに述べたように, さらに遠方の錆ガ浜・阿古熔岩上にも同抛出物は認められる。

2g) 薄木熔岩(1763~69 年 ?)(YP3): この熔岩は薄木の北北東約 1 km, 三宅島無線中継所から桑木平への山道の南側 (地形図上で実線路から点線路に移る附近)にある直径約 50 m, 深さ 10~15 m の火口から流出, 南南西流して, 海岸から数 10 m 手前(噴火当時の海岸線が現在と同じとして)で停止した。 火口の北側を通っている山道の崖には, 粗大な岩滓(一部火山餅)および紡錘形火山弾が厚く堆積している。 この岩滓層の下位には, 類質火山岩岩塊が見られるが, これはおそらく新澪爆裂火口から抛出されたものであろう。 薄木南方の海岸でも, この熔岩は 新鼻熔岩を覆う類質凝灰角礫岩層(新澪抛出物)をさらに被覆している関係が観察される。 この熔岩流は延長約 1.5 km, 最大幅約 300 m で, 厚さは数 m を超えない。

岩石の記載 : 熔岩流・岩滓および火山弾は, 肉眼的には, すべて同質の無斑晶質玄武岩である。 薄木部落の南方, 熔岩流の末端で採集したものを代表者として記載する。

無斑晶質玄武岩(NI57072706): 薄木部落南方海岸, 熔岩。

斑晶 :
きわめて少量の小型斜長石のみである。 斜長石は亜灰長石で, より曹長石成分に富む斜長石に薄く覆われる。
石基 :
中粒で, 斜長石・単斜・輝石・鉄鉱およびマイクロライトを含む淡褐色ガラスからなる。

2h) 穴ニツ寄生火山熔岩(1763~69 年 ?)(YP3): この熔岩は 穴ニツ寄生火山およびそれから南方にある幾つかの火口から噴出されたものと考えられる。 この熔岩は西流し, 先端は2方に分岐し, 現在のバス道路までには達することなく停止した。 このバス道路の切割には, 第 23 図に示すような露頭が見られる。 この露頭の最上位の類質火山礫を含む薄い褐色ローム層は新澪抛出物と推定される。 しかしこの露頭のごく近傍にまで達している穴ニツ寄生火山熔岩流の北分枝上には, この種の褐色ローム層は認められない。 穴ニツ寄生火山の南には, 粗大な岩滓・火山餅および紡錘形火山弾が多量に堆積している。 このことから, この寄生火山が岩滓丘であることは確かである。 空中写真および野外調査から判断すると, これは東北東 - 西南西に相接して並んだ2個の岩滓丘からなっており, 西南西のものの方がやゝ大きく, また形態も完全に残っている。

第 23 図 富賀神社と錆ガ浜との中間バス道路切割(319C)。 ST : 岩滓凝灰岩・凝灰岩, LM : 褐色ローム, P : 黒雲母流紋岩軽石砂レンズ, S : 岩滓, LP : 火山礫を含む褐色ローム

岩石の記載 : 熔岩流および岩滓は, 肉眼的には、すべて同質の無斑晶質玄武岩である。

橄欖石含有玄武岩(NI58031902): 南西山麓富賀 - 錆ガ浜中間バス道路の東方約 0.2 km, 熔岩。

斑晶 :
少量の小型斜長石およびきわめてまれに橄欖石
石基 :
大きくみると中粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱およびマイクロライトを含む淡褐色ガラスからなる。 しかし所により細粒な部分がレンズ状に存在し, この部分には普通輝石・橄欖石および鉄鉱の微斑晶が含まれている。 また石基として, 完全に単斜輝石(外縁)および細粒鉄鉱(中核)に置換された橄欖石仮像が散在する。

3) シトリ熔岩(1811 年 ?)(YP4)

主成層火山の北東海岸, 1940 年の噴火に際して形成されたシトリ湖の南西岸から その南西方に分布する熔岩・岩滓および火山弾をシトリ熔岩と呼ぶ。 高山(156.8 m 山)の北西側にあり 西南西から東北東にのびる裂罅火口の内壁には, 厚い火山餅岩滓集塊岩が露出している。 この裂罅火口の北の沢にある林道の切割(328E)では, 上位から黒色岩滓(1940 年抛出物)・ 灰長石の巨晶を含む玄武岩の大型火山弾(本火口抛出物)・ 黒雲母流紋岩軽石小片を含む褐色ローム層の順に露出している。 このことから, 本火口の活動が 9 世紀後半あるいはそれ以降であるということだけは確かである。 この裂罅火口から流出した熔岩は東北東流し, 現在のバス道路の南西方約 0.2 km にある高さ 20~30 m の旧海蝕崖を瀑下し, 海中に熔岩台地を形成した。 この台地をつくる熔岩の表面には, スパッター・コーン(spatter cone)と考えられる突起部が幾つか見られる。 1940 年熔岩に取り囲まれて残ったネズミサマの小丘 (バス道路面から高さ数 m)もおそらくその一つであろう。 しかしながら, この小丘をつくる熔岩には, 灰長石巨晶を含まない部分が, まれではあるが見られる。 シトリ熔岩は後述する 1874 年熔岩あるいは 1940 年熔岩と同様に, 一種の複合熔岩流なのであろう。

岩石の記載 : この熔岩の斑晶に富む部分には, 長さ 1 cm に達する灰長石と, 長さ 3 mm に達する橄欖石の大型斑晶がやゝ多量に存在する。 シトリ湖岸に露出するものをその代表として記載する。

普通輝石橄欖石玄武岩(NI57080807): 北東海岸シトリ湖西岸, 熔岩。

斑晶 : 灰長石・橄欖石および普通輝石
灰長石斑晶の中核部は, ほとんど累帯構造を示さないが, 成分的に不連続な亜灰長石に薄く覆われている。 橄欖石結晶は常に円味を帯びており, また単斜輝石粒に覆われている。 普通輝石はその量が少ない。
石基 :
中粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱・粒状および長柱状のマイクロライトを含む 淡褐色ガラスおよびクリストバル石からなる。 孔隙にはやゝ顕著にクリストバル石が晶出しており, これは肉眼でも明瞭に認められる。

ネズミサマの小丘には無斑晶質熔岩がまれに見られる。

無斑晶質玄武岩(NI58072701): シトリ湖南西約 0.25 km ネズミサマの小丘, 熔岩。

斑晶 : 灰長石・普通輝石および鉄鉱
灰長石斑晶は長さ約 1 mm, 清澄で, 薄い亜灰長石縁に覆われる。 普通輝石(2 V (+) ≒ 45°)および鉄鉱も小型(長さ約 0.5 mm)である。 3者ともその量はきわめて少量である。
石基 :
石基鉱物は斑状岩とほゞ同じであるが, この標本ではクリストバル石は顕著には認められない。

4) 1835 年熔岩(YP5)

1835 年 11 月の噴火は主成層火山の西中腹, 阿古・伊ガ谷両村界に近い伊ガ谷地内で起こったことは古記録から明らかである。 すでに噴火活動史の項で述べたように, 今回の調査では, 当時の活動によって形成された火口あるいは火口群をみいだすことはできなかった。 また噴出物の正確な分布を追跡することができなかったため, 地質図には熔岩の大体の分布を示してあるに過ぎない。

この噴火に際して抛出されたと考えられる1火山弾は, やゝガラス質の無斑晶質玄武岩で, 斑晶として少量の斜長石を有し, またきわめて少量の橄欖石・紫蘇輝石斑晶を含んでいる。

5) 1874 年熔岩(YP6s・YP6l)

1874 年の噴火によって噴出された岩滓および熔岩流は, 主成層火山の北山腹海抜約 560 m の地点を頂点とし, 神着部落の東はずれからホーダイに至る扇形のなかに分布している。 1874 年の噴火以前には, 現在熔岩流に覆われている地域に, タイグリ穴・菖蒲穴・水穴などの旧火口と思われるものが 海岸近くまで連続していたといわれている 5) 。 1874 年の噴火も, おそらく, 南から北へのびる裂線上に並んだ幾つかの火口から起こったものであろう。 噴火の経過についてはすでに噴火活動史の項で述べた。

噴火の初期に抛出されたものは, 無斑晶質玄武岩岩滓, 肉眼的に灰長石および橄欖石斑晶の認められる玄武岩岩滓, 黒色の熔岩被覆をもつ大型灰長石結晶(いわゆる結晶火山礫) およびアリヴァライト団塊であって, これらのうち最初のものが, 量的には, 大部分を占める。 これら各種抛出物はなんら抛出順序に規則性もなく, たゞ雑然と堆積しているように見られる。 おそらく地下深所から上昇して来た岩漿中に不規則に斑晶鉱物が集まっていたのであろう。

熔岩流は大部分が無斑晶質玄武岩であるらしいが, その末端海に接するところでは, 長さ数 mm に達するやゝ大型の灰長石・橄欖石および普通輝石斑晶に富む部分が 不規則な形をして存在している。 一方, この熔岩流末端中央部, バス道路北側のグラウンドでは, 典型的な複合熔岩流の断面が見られる。 こゝでは, 熔岩の厚さは 1.4 m, 元の地表面に接する薄い無斑晶質岩滓質部分に引き続いて, 厚さ 0.3 m, 緻密で無斑晶質な部分が重なり, さらにその上位には厚さ 0.25 m やゝ多孔質で, 長さ最大 1 cm に達する灰長石~亜灰長石, および長さ最大 5 mm に達する橄欖石斑晶を多量に有する部分が来る。 最上位はきわめて多孔質であり, かつ熔岩の表面は鋸歯状を呈し, 凹凸が甚だしい。 この部分の厚さは約 0.85 m, 上述の斑晶のほかに, さらに大型の灰長石斑晶(長さ 2 cm あるいはそれ以上に達し, 橄欖石粒を包有する)およびアリヴァライト団塊を顕著に含んでいる。 これら3層の境界面は元の地表面と平行であり, それぞれの境界面は比較的はっきりしているが, 急冷周縁相は認められない。

複合熔岩流はすでに W. Q. Kennedy [ 以下の [注1] 参照 ] によって Scotland から, また久野久 [ 以下の [注2] 参照 ] によって北伊豆の網代玄武岩類および畑玄武岩類(鮮新世)から報告され, その生成機構も詳しく説明されている。 1874 年熔岩もこの部分に関する限りは, それらとまったく同様な性質を示しており, その生成機構も同一と考えてよいであろう。 すなわち, 久野久によれば地下の岩漿溜内において早期に品出した結晶が下部に沈降し, 上部に無斑晶質岩漿, その下位に斑晶を有する岩漿が相接して存在するような状態となり, これが上位のものから順次引き続いて上昇, 地表に流出するに至ったものが複合熔岩流である。 無斑晶質岩漿と斑晶を有する岩漿との境界は常に液体の接触面であって, 一度も空気中に露出することはないから, 岩滓層も急冷相も形成されない。 こゝの場合は, すでに述べたように, 3つの部分に分けることができ, その現出状態から次のような関係が熔岩流出以前にあったと想像される。 地下の岩漿溜内において, より早期に晶出した結晶がより下位に沈降し, 下位から大型灰長石・橄欖石および普通輝石に富む部分, その上位により小型の灰長石~亜灰長石・橄欖石・普通輝石および紫蘇輝石に富む部分, そして最上位に無斑晶部 (上述の斑晶鉱物よりも後期に品出したと考えられるチタン磁鉄鉱斑晶を少量含む) の3相に分かれた岩漿が存在していた。

[注1]
Kennedy, W. Q. : On composite lava flows, Geol. Mag., vol. 68, No. 4, 1931
[注2]
Kuno, H. : Composite lava flows and dikes found in North Izu, Japan, Jour. Geol. Soc. Japan, Vol. 56, No. 655, 1950

典型的な複合熔岩流の性質を示す部分は, おそらく, これら3相に分かれた岩漿が穏やかに引き続いて流出したことを暗示するものであろう。 それに反して, 無斑晶部と多斑晶部とが不規則に入り乱れている部分は, 岩漿の急激な噴出その他の理由で, 上述の規則的な分相が乱されたものであろう。 このことについては, 1940 年熔岩の記述の際にもう一度触れることにする。 このように一続きの熔岩流でありながら, 異なった物理条件を示すのは, 単一火口の活動の烈しさの時間的推移を示すものであるかどうか, こゝの場合にははっきりしたことはいえない。

この噴火によって結晶火山礫として抛出された大型灰長石は, 1889 年の菊地安 1) の研究以来こんにちまで, 物理的・化学的あるいは X 線的研究の代表的材料として, 国内外で使用されている。

岩石の記載 : 典型的な複合熔岩流の様相を示す部分の標本について記載をする。

普通輝石橄欖石玄武岩(NI57080611a): 神清 - 土佐両部落の間バス道路北側グラウンド, 複合熔岩流の上部岩滓質部。

斑晶 :
斜長石・橄欖石・普通輝石および鉄鉱からなる。 長さ約 2 cm の大型斜長石は純灰長石に近く Ab4 An96(γmax. = 1.588, αmin. = 1.575)の成分を有し, 長さ約 5 mm の中型のものは もっとも灰長石成分に富む部分で Ab8 An92(γmax. = 1.586)である。 両者はともに包有物をほとんど含まず清澄で, 成分的に不連続な亜灰長石(成分は大体 Ab25 An75)に薄く覆われる。 長さ約 1 mm の小型斜長石は もっとも灰長石成分に富む部分で Ab13 An87(γmax. = 1,583), 累帯構造が見られ包有物を少量有する。 普通輝石には大型のもの(長さ約 1 mm)と小型のもの(長さ約 0.2 mm)とがあり, 後者は鉄鉱とともに集合斑晶を示すことがある。 後者の方が結晶作用の後の時期のものであろう。
石基 :
中粒~細粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱・橄欖石 およびやゝ多量の淡褐色ガラス(マイクロライトを含む)からなる。 橄欖石は液(現在淡褐色ガラスとして存在する)との反応が完全であれば, 単斜輝石 + 鉄鉱に置換されてしまい当然存在し得ないものであろう。

紫蘇輝石普通輝石橄欖石玄武岩(NI57080611b): 前述と同一産地, 複合熔岩流の中部。

斑晶 :
斜長石・橄欖石・普通輝石・紫蘇輝石からなる。 長さ 6~7 mm の中型斜長石は Ab4 An96~Ab7 An93(γmax. = 1588, αmin. = 1.574)の灰長石であって, 長さ 1~2 mm の小型のものは もっとも灰長石成分に富む部分で Ab8 An92(γmax. = 1.586)である。 両者とも包有物をほとんど含まず清澄で, 成分的に不連続な亜灰長石(成分は大体 Ab25 An75)に薄く覆われる。 さらに小型な斜長石斑晶が少量含まれるが, これは包有物に富み, 累帯構造が明瞭である。 橄欖石は常に単斜輝石縁に囲まれ, その成分は Fo84 Fa16~Fo82 Fa18(αmin. = 1.665, γmax. = 1.707)である。 普通輝石には大型のもの(長さ 2~3 mm; αmin. = 1.693, γmax. = 1.724)と小型のもの(長さ約 0.2 mm)とがあり, 後者は鉄鉱とともに集合斑晶を示すことがある。 紫蘇輝石は長さ約 1 mm で, 単斜輝石縁に囲まれる。
石基 :
中粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱・マイクロライトを含む淡褐色ガラスおよび少量の橄欖石からなる。 橄欖石は一般の石基鉱物に較ベるとやゝ大型で, 常に単斜輝石縁に囲まれ, またその一部あるいは全部が微細な鉄鉱粒に置換されているものが多い。

この岩石の化学分析値は第 2 表 No. 8 に示してある。

橄欖石普通輝石含有玄武岩(NI57080611c): 前述と同一産地, 複合熔岩流の下部緻密部。

斑晶 :
少量の小型斜長石(灰長石~亜灰長石) およびさらに少量の小型普通輝石・鉄鉱および橄欖石からなる。 斜長石には, 清澄で累帯構造を示さないものと, 包有物に富み, 累帯構造を示すものとの2種がある。
石基 :
中粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱・マイクロライトを含むガラスおよび少量のクリストバル石からなる。

この岩石の化学分析値は第 2 表 No. 9 に示してある。

1874 年の噴火に際し, 結晶火山礫として抛出された大型灰長石 およびそれに含まれる橄欖石の化学成分は, 第 4 表 No. 1, 2 および 5 にそれぞれ示してある。

第 4 表 1874 年および 1940 年噴出物中の大型灰長石および橄欖石の化学成分の比較

6) 1940 年熔岩(YP6s ・YP6l)

1940 年の噴火活動についての地質学的・地球物理学的および地球化学的調査研究は 数多く発表されている(末尾の文献参照)。 とくに地質学的な調査研究は津屋弘逵 15), 16), 20), 22), 25), 28) の論文に詳しい。 以下の記載は主として津屋弘逵の論文をもとにし, 筆者の観察をも加えたものである。

1940 年の噴火活動によって噴出された岩滓および熔岩流は, 主成層火山の北東山腹 海抜約 500 m の地点と 赤場暁とを結ぶ西南西 - 東北東線を中心線とした, 狭い範囲および中央火口丘の大穴・上段火口内に分布している。 噴火活動の経過については, すでに噴火活動史の項で述べた。

山腹噴火地帯には, 津屋弘逵によって A, B, B', C, D, E, F, G および H と名づけられた寄生火口および寄生火山が存在する。 筆者は山腹上位にある A, B, B', C 火口および山麓に近い E 火口列を観察することができなかった。

A 岩滓丘 : この岩滓丘は山腹噴火地帯内でもっとも高い位置に形成されたもので, 神着・坪田旧村界近くの海抜約 500 m の急斜面にある。 その北東半部は新噴出物が堆積したため, 旧地表面から高さ約 30 m の新しい円錐丘の形態を示しているが, 南西半部は旧尾根の一部によって代表されている。 火口は北東 - 南西方向にのびた楕円形を示し, 長径約 150 m, 短径約 100 m, 深さ約 50 m である。 火口の南西壁には この尾根を構成している厚さ 1~5 m の3枚の熔岩と 赭褐色岩滓層の互層(主成層火山噴出物 ?)が見られる。 北東壁の上半部のみに本火口の抛出物である黒色本質岩滓が堆積しており, また火口南西側の尾根の上には 類質抛出物である旧熔岩片がわずか 0.5 m の厚さに堆積している。 火口南西壁の3層の旧熔岩の中位のものは橄欖石灰長石玄武岩である。

B 岩滓丘 : これは A 岩滓丘のすぐ北東に続いている。 旧地表面からの高さは A とほゞ同じである。 全山無斑晶質本質岩滓からなり, その中央に直径約 150 m の火口がある。 噴火直後は火口の下部は円筒状を呈し, その底を認めることはできなかったが, 約3ヵ月後にはかなり埋まり, 南縁から約 50 m の深さになった。

B' 火口列 : B 岩滓丘の北東側外斜面から北東方に約 700 m の間続く地溝状の窪みは B' 火口列と名づけられており, これは少なくとも6個の火口(B1', B2', …, B6')からなっている。 これらの火口はほゞ同程度の大きさで, 全体として幅 50~150 m, 深さ約 50 m の地溝を形成している。 B1' 火口は B の北東外斜面に開口しており, 一方 B6' 火口は B' 火口列の北東端, 海抜約 200 m にある(1940 年の噴火の初発地点あるいはそれに近い位置にある)。

この火口列は A, B 両岩滓丘ののっている尾根の先端附近から急に拡がり, かつ深まっていた旧村界の沢に開口したもので, その南北両壁はこの沢を埋めて堆積した新噴出物のみによって構成されている。 筆者の観察によれば, この火口列の下方の村界の沢の両側にも岩滓質噴出物が堆積していることから, 岩滓丘あるいは明瞭な火口を形成するほどではないにせよ, 裂罅状の火口が続いていたものと想像される。 B' 火口列およびその東北東延長の火口から抛出された噴出物は, 主として岩滓であるが, 熔岩餅・火山弾を伴なう。 これら火口列の南北両側の新しい噴出物に覆われた地表面には, 火口列に平行した無数の裂罅が発達し, また火口壁に近い部分は谷側に階段状に陥没している。

C 火口 : この火口は A, B 両岩滓丘ののる尾根の北側の尾根南斜面に開口したもので, 直径約 50 m, 南に開いた馬蹄形を呈する。

A, B および C 附近の噴出物の分布状態から判断すると, C がもっとも早く噴出を終り, A がこれに次ぎ, B はその後まで噴出を続けていたと考えられている。

D 岩滓丘 : これは旧村界の沢の南側にある平坦な尾根の上の海抜約 140 m の地点にある。 西南西 - 東北東方向に約 200 m の長さを有する裂罅状火口で, その南北両側にはこの火口からの噴出物である岩滓・火山弾が堆積し, 平行した尾根状の高まりをつくっている。 火口底には熔岩が認められ, これがヨリダイ沢へ流入している。

E 火口列 : この火口列は D 岩滓丘の東北東方約 0.5 km, ヨモギガ沢の中, 海抜約 100 m の所にあり, 西南西 - 東北東方向にのびている。 この火口列は長さ約 100 m, 7個ほどの小火口が連なり, 深さ約 10 m, 幅も同程度である。 こゝからの噴出物である黒色岩滓は, 厚さ約 2 m に過ぎない。

F 火口 : この火口は E 火口列の北東方約 0.5 km, 1940 年噴火以前の赤場暁湾の最奥部海蝕崖に当る位置にあったといわれている。 しかし筆者が調査した際(1958 年 3 月)には, その存在を確認できなかった。

いままで述べてきた A~F 火口から噴出された初生物質は, すべて黒色~赭色の無斑晶質玄武岩であって, 後に述べる G, H 両火口からの噴出物とは異なっている。

G および H 岩滓丘(瓢箪山寄生火山): この両者は旧赤場暁湾の南部で起こった海底噴火によって形成されたものである。 1940 年の噴火当時はその形態の類似から, 瓢箪山と呼ばれていたが, 現在では海に接する H 岩滓丘は, 海蝕によって過半失われている。

瓢箪山は現在(1958 年 3 月), 西南西 - 東北東径が約 500 m(噴火直後は約 900 m), 幅約 400 m である。 この山の西南西部を占める G 岩滓丘は海抜約 65 m で, 山頂には直径約 100 m, 深さ 30~40 m の火口を有している。 火口壁は北側がもっとも高く, 南方に次第に低下している。 G 火口近くには噴気作用のあとを示す白色, 黄色, 赤褐色の昇華物が現在でも見られる。

H 岩滓丘は尾根続きで G の東北東側に連なり, 海抜約 40 m, 山頂には直径約 50 m の浅い皿状の火口を有していたといわれているが, 現在ではその過半は海蝕によって失われている。

瓢箪山は主として岩滓および火口弾により構成されている。 とくに G 岩滓丘の表面は無数の巨大な紡錘形火山弾に覆われている。 これら本質抛出物は 大型の灰長石および橄欖石斑晶を有する 玄武岩(アリヴァライト団塊を含むこともある)を主とするが, 無斑晶質玄武岩も認められる。 また火山弾のなかには, 複合火山弾(津屋弘逵 16) の帯殻火山弾)と呼び得るものがある。 この種の火山弾は斑晶にきわめて乏しい内部と, それを取り囲む厚さ数 mm~1 cm の 斑晶の多い外殻(大型の灰長石および橄欖石斑晶に富んでいる)とからなっている。 無斑晶質の内部は外形にまったく一致する紡錘形を呈している。 これら各種岩質の本質抛出物は, 野外での堆積状態から推察すると, まつたく順序, 規則性もなく噴出されたものらしい。

瓢箪山の東部海蝕崖の下位には, 火山弾あるいは火山餅層に挾まれて熔岩が露出しているが, これについては後述する。

山腹火口のうちの A, B などは 1940 年 7 月 12 日午後 10~11 時頃に, 下方の火口は同日午後 12 時頃にそれぞれ盛んに活動していたようである。 E 火口列は 12 日の夜中に, 赤場暁湾内では F 火口の北東方海中の2ヵ所が 12 日夜に, また F 火口は 13 日の午後にそれぞれ噴火しつゝあり, F 火口あたりの断崖の下には 13 日朝に湖水が認められた。 瓢箪山は 13 日朝すでに認められたというから, G および H は 12 日夜から活動していたに相違ないが, 13 日の午後にもなお盛んに噴火していたようである。

津屋弘逵は以上の情報を総合して, A, B, C, D, E その他山腹の噴出地点は 13 日の朝あるいは午前中に活動をほとんど終えたが, F, G, H などは 13 日午後にも活動を続けていたと判断した。

山腹噴火によって流出した熔岩流には, 旧村界の沢を下って赤場暁湾に流れ込んだもの(赤場暁熔岩流), ヨリダイ沢を海岸近くまで流れたもの(ヨリダイ沢熔岩流), および瓢箪山の東海蝕崖下位に露出するもの(瓢箪山熔岩流)とがある。

赤場暁熔岩流 : この熔岩流は, その分布状態から推察して, 山腹の B' 火口列を中心として噴出されたもののようである。 同熔岩は直接旧村界の沢に沿って流れたものが主流と考えられるが, 一部は B' 火口列から南側に溢れて東北東流し, 海抜約 250 m 附近で旧村界の沢に瀑下合流している。 南側に溢流した熔岩の一部はさらに南側の沢を埋めている。 1940 年の噴火直後には, この熔岩に堰止められて, 東西の長さ約 30 m, 幅約 15 m の堰止沼が形成されたといわれる。

熔岩の主流は旧村界の沢をさらに東北東流し, シトリ熔岩(1811 年 ?)からなる熔岩台地の南部を覆い, 旧赤場暁湾の北部(瓢箪山の北側)を埋めて, 海中に突出した。 赤場暁熔岩流の大部分は, A ~F 火口から抛出された岩滓と同様に, 無斑晶質玄武岩であるが, その末端海に接する所では, 大型の灰長石・橄欖石斑晶に富む部分が不規則に存在するのが観察される。 これは 1874 年熔岩の末端で観察される状態とまったく同じものである。

ヨリダイ沢熔岩流 : D の裂罅火口から噴出した熔岩の大部分は, ヨリダイ沢を流下しているが, その一部は北壁を越えて溢れ出し, 旧山腹上の浅い沢に沿って東方に流下し, 長さ約 150 m, 幅約 30 m, 厚さ約 5 m の一小支流を形成している。

D ののっている尾根とその南方の大般若山との間のヨリダイ沢に流れ込んだ熔岩は, 大般若山北東麓に接触し, この沢を堰止めてほゞ東西の長さ約 100 m, 南北の最大幅約 50 m の瓢箪形の堰止沼を形成していた。 しかしながら, 筆者が 1958 年 3 月調査した際には, まつたく干上っていた。

ヨリダイ沢熔岩流は, 旧堰止沼の東端近くでは, 70~100 m の幅を有するが, 漸次狭まって約 0.3 km 東方の熔岩滝を形成している所では, 幅約 20 m になっている。 しかしこの滝を下った所から同熔岩流は幅約 100 m の沢底一面に拡がり, さらに下流に行くに従ってふたゝび狭まって, D 火口から約 0.8 km, 現在のバス道路と海蝕崖とのほゞ中間で停止している。 熔岩流の厚さは 5~10 m と想像される。

この熔岩流は肉眼的な斑晶の認められない無斑晶質玄武岩である。

瓢箪山熔岩流 : この熔岩流は 瓢箪山東部の海蝕崖の下位に 火山弾あるいは火山餅層に挾まれて露出している。 この熔岩は厚さ約 3 m, 海蝕崖で観察した限りではほゞ水平に分布している。 海蝕崖の南部では, 図版 7 に示すように, この熔岩の基質は多孔質で, 大型の灰長石・橄欖石斑晶に富んでいるが, そのなかに緻密で無斑晶質の部分が, レンズ状にあるいはやゝ不規則な形をして含まれる。 このような構造は, 第 24 図に示すように, 地下の岩漿溜あるいは火道内で, 早期に品出した灰長石および橄欖石が下位に沈降し, 無斑晶および多斑晶岩漿を構成したが(第 24 a 図), なんらかの原因で岩漿が急激に上昇することにより, 上位の無斑晶部がレンズ状・紡錘状あるいはやゝ不規則形に引きちぎられて(第 24 b 図), 噴出したものと解釈されるであろう(第 24 c 図)。 さきに述べた複合火山弾(帯殻火山弾)は このようなレンズ状・紡錘状無斑晶部を中核として抛出されたものであって, その形態がすでに熔岩(あるいは岩漿)内にあった構造に支配されたことは明白である。

図版 7 瓢箪山南東部海蝕崖に見られる瓢箪山熔岩。 p : 多孔質で斑晶に富む部分(白点は灰長石巨晶), np : 緻密質で無斑晶質の部分

第 24 図 赤場曉熔岩流の噴出機構。 p : 斑晶に富む部分, np : 無斑晶質の部分

赤場暁熔岩が流下した沢の下方では, この沢の側壁から崩落した砂礫に混じって一種の熔岩樹型が, 津屋弘逵 16), 28) によってみいだされており, その成因が論じられている。

中央火口丘の大穴および上段火口内の3地点から起こった噴火によって形成された, 岩滓丘の成長過程および当時の形態については, すでに詳述されている 16), 22) 。 この岩滓丘は3個の円錐丘が合体した複合火口丘といわれているが, 筆者の調査時にはそれぞれをはっきり区別することはできなかった。 複合火口丘の最高点は大穴火口の最低部から約 110 m で, 同火口の南壁最高点より約 10 m 低い。 この火口丘は 無斑晶質玄武岩の岩滓・火山弾および熔岩塊などの本質抛出物によって構成されているが, 山体の中心下位には類質および異質抛出物がやゝ多量に存在するであろう。 津屋弘逵 16), 20), 25) によって, この火口丘斜面上で2個の異質抛出物が発見された。 両者とも黒色岩滓に包まれた白色岩片で, 高熱変成作用を受けた「酸性凝灰岩」と考えられている [ 以下の [注] 参照 ] 。 筆者はとくに注意して, このような異質抛出物を探したが, みいだすことはできなかった。 これら「酸性凝灰岩」は 三宅島火山の基盤を構成する第三紀火山岩層から由来したものであろう。

[注]
「酸性凝灰岩」のうちの1つは緻密質陶器様の外観を呈し, 多量の硬石膏を含む。 他の1つは塵状物質および少数の石英・長石を含む無色ガラスからなる多孔質岩石である。

岩津丘の北西麓には, 南西 - 北東方向の長さ約 130 m, 南東 - 北西方向の最大幅約 85 m, 半円形を呈する熔岩台地がある。 この熔岩は旧上段火口をほとんど完全に埋めたものであって, 現在でもこの火口の北縁のみは熔岩流に覆われずに残っている。 しかし西縁は溢れ出した熔岩に覆われており, その熔岩流の末端は高さ 3~5 m である。 熔岩台地の過半は火山砂礫・火山弾などによって覆われており, 岩滓丘の山麓に近づくに連れてその厚さを増す。

山頂噴火によって噴出された初生物質は, すべて無斑晶質玄武岩であって, 斑状のものは認められない。

岩石の記載 : 山腹の B' 火口列から噴出して, 坪田・神着の旧村界の沢を流下した赤場暁熔岩の大部分は, 肉眼的には斑晶の認められない玄武岩である。 また D 火口から噴出して, ヨリダイ沢に沿って流れたヨリダイ沢熔岩, および中央火口丘の上段火口を埋めた熔岩もともに無斑晶質玄武岩である。 瓢箪山の南東崖に露出する瓢箪山熔岩は, すでに述べたように, 斑状玄武岩のなかに無斑晶質玄武岩のレンズが含まれたものである。 これら岩石について簡単に記載する。

赤場暁熔岩
紫蘇輝石橄欖石含有普通輝石玄武岩(NI57080207):
瓢箪山 G 火口の北西方約 0.4 km, バス道路の西側, 熔岩。

斑晶 :
少量の斜長石(灰長石)・普通輝石・鉄鉱・橄欖石および紫蘇輝石からなる。 これら斑晶はすべて小型(長さ約 0.5 mm)で, その総量は 3~4 容量 % である。
石基 :
中粒~細粒で, 斜長石・単斜輝石・鉄鉱および マイクロライトを含む淡褐色ガラス(結晶度のよい標本が採集できなかったため, やゝ多量)からなる。

ヨリダイ沢熔岩
普通輝石紫蘇輝石含有橄欖石玄武岩(NI58032801):
ヨリダイ沢, バス道路西方約 0.5 km, 熔岩。 この熔岩の鏡下での特徴はほとんど赤場暁熔岩と同様である。 たゞ斑晶の容量がさらに少ないことがめだつ。 またこの標本は熔岩の中心部から採集したものであるから, 結晶度はよい。 しかし粒度は表面でも中心部でも変わらず中粒~細粒である。

瓢箪山熔岩・多斑晶質部
普通輝石橄欖石玄武岩(NI57080206a):
瓢箪山南東海蝕崖, 熔岩(図版 II-1)。

斑晶 :
斜長石・橄欖石・普通輝石および鉄鉱からなる。 斜長石には大型(長さ 1 cm あるいはそれ以上), 中型(長さ約 5 mm)および小型(長さ 0.5~1 mm)の3種があり, それぞれの鏡下での性質および化学成分は, 1874 年熔岩の上部多斑晶部(NI57080611a)の3種の斜長石と同一である。 普通輝石および鉄鉱は常に小型(長さ約 0.2 mm)で, 両者が集合斑晶を示すことがある。
石基 :
中粒~細粒で, 斜長石・単斜・輝石・鉄鉱・ マイクロライトを含むガラス・クリストバル石および橄欖石からなる。 橄欖石の鏡下での性質は 1874 年熔岩の上部(NI57080611a)および中心部(NI57080611b)のそれと同じである。

瓢箪山熔岩・無斑晶質部
橄欖石紫蘇輝石普通輝石玄武岩(NI570802066b):
瓢箪山南東海蝕崖, 熔岩(図版 II-2)。 この熔岩の鏡下での性質は赤場暁熔岩(NI57080207)のそれとほぼ同じであるから, 記載は省略する。 たゞこの標本ではより結晶度が高く, 孔隙内にクリストバル石がやゝ顕著に品出している点が異なっている。 また紫蘇輝石斑晶を少量ではあるが含むという点を除けば, 1874 年熔岩の下部無斑晶質部(NI57080611c)と鏡下での性質は同じである。

瓢箪山火口から結晶火山礫として抛出された大型灰長石, および同じく同火口からの抛出物であるアリヴァライト団塊に含まれる橄欖石の化学成分は, 第 4 表 No. 3, 4 および 6 にそれぞれ示してある。

中央火口丘の上段火口を充した熔岩
無斑晶質玄武岩(NI57080104):
旧上段火口の北西縁, 熔岩(図版 III-1)。

斑晶 :
長さ 1~1.5 mm の斜長石が少量存在するだけである。 このほかに微斑晶(平均の長さ 0.3 mm)として, 斜長石・普通輝石・紫蘇輝石・橄欖石および鉄鉱がある。 しかし斑晶・微斑晶および石基鉱物の粒度の変化は漸移的で, それぞれの間にはっきりした境を引くことはできない。 斜長石は灰長石~亜灰長石で, 累帯構造が明瞭に認められる。 紫蘇輝石および橄欖石は常に単斜輝石縁に囲まれる。
石基 :
山腹の火口から噴出した熔岩(前述)の石基に比較して粒度が高いのが特徴である。 構成鉱物は斜長石・単斜輝石・鉄鉱およびマイクロライトを含む褐色ガラスである。

[ II.4.1.4 ] 汀線堆積物

海蝕崖の下の海岸には, 角張った大岩塊や水磨された巨礫が幅狭く堆積しているだけで, 一般に砂浜の発達は悪い。

北東海岸の瓢箪山から北方アノウ崎の間および南方ニシツシロの間に発達する砂浜は, 1940 年の噴火によって形成された瓢箪山の東半が破壊され, 海流によって運ばれて生じたものである。 また北海岸の大久保の砂浜も, 1874 年の噴火後の流砂によって生じたものであるといわれている 9)

西南西海岸の錆ガ浜も約 0.5 km の長さにわたって続く砂浜である。 この砂浜も 1643 年(?)の噴火後の流砂によって生じたものであるかも知れない。 また阿古部落の西方, 今崎熔岩と阿古熔岩との間には, 円礫浜が続いている。

II.4.2 三宅島の温泉・噴気および陸水

三宅島では温泉湧出地点が1ヵ所だけ知られている。 この湧出地点は同島の西海岸, 阿古部落の北はずれから北へ海岸沿いに約 0.5 km 行った海浜の巨礫の間にあって, 満潮時にはまったく海面下に没してしまう。 泉温は, 1951 年 6 月 12 日の浅沼俊夫(野口喜三雄・西条八束 32) の報告参照)の観測によれば, 39.3 ℃, 38.3 ℃, 36.8 ℃ などであり, また 1956 年夏(はっきりした観測月日は不明)の藤本治義・黒田吉益・小松啓 38) の観測では, 干潮直後頃で約 38 ℃, それから 1 時間後には約 42 ℃ まで上昇した。 しかしながら, これらの測定値は海水が混入した温泉水の温度であって, 実際にはもっと高い温度であろう。 1951 年と 1956 年の測定値の間にはほとんど差異はない。 その泉質についての調査結果は発表されていないようである。

山頂にある中央火口丘火口内にある 1940 年岩滓丘は, 現在(1958 年 3 月)でも, その火口内から弱い白色の噴気をあげている。 野口喜三雄・西条八束 32) によると, この噴気は無臭で多量の水蒸気を含むほかは, 通常の空気とほとんど同じ成分である。 また硫化水素・亜硫酸ガス・炭酸ガスなどは認められない (1951 年 5 月 23 日あるいは 24 日測定, 測定時の気温 15.6 ℃)。 噴気温の測定は, 浅沼俊夫および諏訪彰によって, 1949, 1951 および 1952 年に行なわれている。 その結果 34) を第 5 表に示す。 同表の噴気観測点番号 1, 2, 3, …, 13 は第 25 図のそれぞれに相当する。

第 5 表 1940 年岩津丘の火口附近の噴気温(諏訪彰 34) による)

第 25 図 1940 年岩滓丘の火口附近の地形図(諏訪彰 34) による)。 等高線に附した数字は A 点を基準(0 m)とした時の高さ。 単位 m (原図の一部を省略してある)

第 6 表 湧水および池水の水質調査結果(野口喜三雄・西条八束 32) による)

第 26 図 試料水採取地点図

三宅島における湧水および池水の水質調査も, 野口喜三雄・西条八東 32) によって行なわれている。 その結果を第 6 表に示す [ 以下の [注] 参照 ] 。 同表の最下欄には, 比較のために海水についての結果も示してある。 第 26 図は試料採取地点を示したもので, 番号 1, …, 22 は第 6 表のそれぞれに相当する。

[注]
天水6種についても水質調査が行なわれている。 天水は概して微弱酸性で, 塩素イオン 1~19 mg / l, 全塩分を示す蒸発残滓 9~67 mg / l である。

湧水は, コメズ湧水Ⅰが弱アルカリ性であるのを除いては, ほゞ中性であって, 塩素イオン 20~179 mg / l, 全塩分を示す蒸発残滓は 63~496 mg / l で無機成分は天水より多い。 塩分含有量が概して多いのは, 海水飛沫が風によって送られ, 陸上の植物・岩石に附着し, さらにそれが雨水に溶解して地中に入ったものと, 地中で岩石から溶出したものとの2種が含まれるためであろう。 鈴野・八重間両湧水および榎木沢水道の水は, 飲料水として比較的よいであろう。

大路池および新澪はいずれも弱アルカリ性で, 塩素イオンおよび蒸発残滓が多い。 とくに新澪においてそれらの点が顕著である。 シトリ神社前の池(津屋弘逵 16) のシトリ湖)は 1940 年の噴火後の流砂に囲まれて生じたもので, 現在は地下水の流入によって塩分は海水より遙かに少ないが, 他の池水より遙かに多い。 これらの池水は蒸発残滓の含量が多く, 飲料水には適さない。

II.4.3 大野原島

第 27 図 大野原島略図

図版 8 大野原島。 左手からマカド根, 蝦根および子安

図版 9 大野原島子安。 南方大根から望む。 前景の岩塊に見られる多数のくぼみはオートリスの部分が侵蝕されて生じたもの

大野原島は, すでに地形の章で述べたように, 直径約 700 m の範囲内に分布した大小9個の岩塔および顕礁からなる(第 27 図, 図版 1, 8 および 9)。 これらはほとんどすべて緻密な珪長質安山岩熔岩によって構成されており, 抛出された火山砕屑物は認められない。 熔岩中にはしばしば径数 cm~30 cm, 円味を帯びたオートリス(autolith)を含み, とくに大根・文蔵根およびアイダノ根には多い。 1~3組の顕著な節理が観察されるが, とくに規則性はないようである。 子安・蝦根およびマカド根では, 著しい破砕帯が発達しており, この破砕帯に沿って硫気変質作用を受けている。 このことはほとんど固化した熔岩内で差動運動が起こったこと, およびその弱線に沿ってガスが上昇して母岩を変質させたことを示すものである。 破砕部の熔岩片はすべて破砕されない部分の岩石と同質であって, 異質の岩片はない。 子安では, その南東部の円柱状に高く聳え立つ緻密熔岩部と, 西部の緻密熔岩部との間に厚い破砕帯があり, あたかも南東部が後から円柱状をなして突き上げてきたかの感を抱かせる。

これらの諸事実から, 大野原島は1個あるいは2個以上の熔岩円頂丘のなごりであると考えたいが, 火山岩頸の侵蝕残骸ではないという確証もない。

岩石の記載 : 大野原島の岩石は一様な珪長質安山岩(Ⅴd)であるが, その石基は非常に細粒なものから粗粒なもの(石基斜長石の長さ約 0.2 mm)まである。 少量ではあるが大型(長さ約 1 cm)の灰長石斑晶を含み, 場所によっては母岩より淡色かつ粗鬆なオートリスに富む。 大根の岩石を代表として記載する。

普通輝石紫蘇輝石安山岩(NI57072504): 大野原島大根, 熔岩(図版 III-2)。 この熔岩は, 肉眼的には灰色で, 長さ 2~3 mm に達する斜長石および輝石斑晶が多量に(約 30 容量 %)存在する。

斑晶 :
斜長石・紫蘇輝石・普通輝石および鉄鉱からなる。 斜長石は累帯構造が著しく, その成分は Ab4 An96(γmax. = 1.588)から Ab61 An39(αmin. = 1.549)までの広範囲にわたる。 紫蘇輝石は その成分 En65 Fs35 → En55 Fs45(2 V (-) = 60.5°, 60.5°, 56.5°, 60.5°(中核)→ 54°(外縁); r > v)で, 単斜輝石縁には囲まれていない。
石基 :
中粒で, 中性長石・斜方輝石・単斜輝石・鉄鉱・鱗珪石およびガラスからなる。 また微細な針状燐灰石がきわめて少量含まれている。

この熔岩に含まれるオートリス(NI57072505)は斑状の岩石で, 斑晶として多量の斜長石(Ab8 An92~Ab59 An41; γmax. = 1.586, αmin. = 1.554)および少量の普通輝石・古銅輝石~紫蘇輝石がある。 石基は 長柱状(長さ平均 0.5 mm)にのびた斜長石・ 古銅輝石~紫蘇輝石(En72 Fs28 → En50 Fs50; 2 V (-) = 64.5°(中核)→ 55°(外縁), 60.5°(中核)→ 50.5°(外縁), 68°(中核)→ 53.5°(外縁), 64.5°(中核)→ 56.5°(外縁), 58°, 56.5°, 55.5°, 54.5°; r > v)および鱗珪石が網状に組合ったクリスクロス(criss cross)組織を示している。 石基鉱物としてはこれら鉱物のほかに, 短柱状の普通輝石(2 V (+) ≒ 40°)および鉄鉱粒が普遍的に存在する。 古銅輝石~紫蘇輝石はときに普通輝石と平行連晶することがあり, その際には常に普通輝石に挾まれている。

母岩の化学分析値は第 2 表 No. 11 に示してある。

引用文献

1) Kikuchi, Y. :
On anorthite from Miyakejima, Jour. Coll. Sci., Imp. Univ. Tokyo, Vol .2, 1889
2) Kôzu, S. :
Optical, chemical and thermal properties of anorthite from three localities of Japan, Sci. Rep. Tohoku Imp. Univ., Ser. 2, Vol. 2, 1914
3) 大森房吉 :
三宅島噴火記事, 震災予防調査会報告,No.79, 1915
4) 大森房吉 :
日本噴火志上編, 震災予防調査会報告,No.86, 1918
5) 辻村太郎 :
三宅島雑観, 地質学雑誌,Vol.26, No.314, 1919
6) 神津俶祐 :
三宅島産灰長石の諸性質, 地球,Vol.7, No.6, 1927
7) 瀬戸国勝 :
三宅島産橄欖石の化学成分, 岩石砿物砿床学会誌,Vol. 1, No. 1, 1929
8) Tsuya, H. :
Volcanoes of Kozu-shima, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp. Univ., Vol. 7, Part 2, 1929
9) 中村左衞門太郎 :
明治7年三宅島噴火(附噴火荒廃地縁化問題), 地震, Vol. 2, No.11, 1930
10) 杉原荘介 :
三宅島ツル根岬に於ける火山噴出物下の弥生式遺跡, 人類学雑誌,Vol.49, No.6, 1934
11) 水路部 :
本洲沿岸水路誌,Vol.1, 1934
12) Tsuya, H. :
On the volcanism of the Huzi volcanic zone, with special reference to the geology and petrology of Idu and the Southern Islands, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp. Univ., Vol. 15, Part 2, 1937
13) 津屋弘逵 :
伊豆七島新島の火山, 東京帝国大学地震研究所彙報,Vol.16, Part 1, 1938
14) 本多彪・門脇関郎・正務章 :
昭和 15 年 7~8 月伊豆三宅島噴火調査報告, 験震時報,Vol. 11, No. 3, 1940
15) 津屋弘逵・萩原尊礼・実川顕・鈴木正治・永田武・水上武・高橋竜太郎・平龍金太郎 :
昭和 15 年 7 月三宅島噴火調査概報,第1部,第2部, 地震,Vol. 12, No. 10~11, 1940(分担執筆)
16) 津屋弘逵 :
昭和 15 年 7 月三宅島噴火再調査報告(Ⅰ),(Ⅱ), 地震,Vol. 13, No. 1~2, 1941
17) 表俊一郎 :
昭和 15 年 7 月三宅島噴火調査概報(第2部続き), 地震,Vol. 13, No. 2, 1941
18) 斎藤仁 :
昭和 15 年 7 月三宅島火山活動調査概報(Ⅰ),(Ⅱ), 岩石砿物砿床学会誌,Vol. 25, No. 2~3, 1941
19) 神津俶祐・加藤磐雄 :
斜長石の光学方位及び其他の諸性質(Ⅰ), 岩石砿物砿床学会誌,Vol. 26, No. 3, 1941
20) Tsuya, H., Takahasi, R., Hagiwara, T., Minakami, T., Nagata, T., Omote, S. and Hirano, K. :
The eruption of Miyake-sima, one of the Seven Izu Islands, in 1940, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp. Univ., Vol. 19, Part 2, 1941(分担執筆)
21) 表俊一郎 :
三宅島新寄生火山及び熔岩流の地形再測量, 地震,Vol.13. No. 7, 1941
22) Tsuya, H. :
The eruption of Miyake-sima, one of the Seven Izu Islands, in 1940. Geological observations of the Miyake-sima eruption of 1940(Ⅱ), Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp. Univ., Vol. 19, Part 3, 1941
23) 陸地測量部 :
三宅島における三角再測量, 東京帝国大学地震研究所彙報,Vol. 19, Part 3, 1941
24) 表俊一郎 :
三角測量より見たる三宅島の地形変動, 地震,Vol.13, No.10, 1941
25) Tsuya, H. :
On the form and structure of volcanic bombs from Volcano Miyake-sima, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp, Univ., Vol. 19, Part 4, 1941
26) Omote, S. :
The third topographic survey of the new parasitic cones and the new lava flow of Miyake-sima Island, Bull. Earthq. Res. Inst,, Tokyo Imp. Univ., Vol. 19, Part 4, 1941
27) Omote, S. :
Crustal deformations in Miyake-sima Island that accompanied the volcanic activities in 1940, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp, Univ., Vol. 20, Part 1, 1942
28) 津屋弘逵 :
火山噴気作用に因る玄武岩の二次的熔融, 東京帝国大学地震研究所彙報,Vo. 20, Part 1, 1942
29) 浅沼悦太郎 :
昭和 15 年三宅島噴火記録, 六人社,東京, 1942
30) 文部省震災予防評議会 :
増訂大日本地震史料第3巻, 1943
31) Kuno, H. :
Petrology of Hakone volcano and the adjacent areas, Japan, Bull, Geol. Soc. Amer., Vol. 61, No. 9, 1950
32) 野口喜三雄・西条八束 :
三宅島調査報告, 1951
33) Kuno, H. :
Cenozoic volcanic activity in Japan and surrounding areas, Trans. New York Acad. Sci., Ser. 2, Vol. 14, No. 6, 1952
34) 諏訪彰 :
三宅島雄山中央火口附近の地形と噴気, 験震時報,Vol.18, No. 2, 1953
35) Tsuya, H. :
Geological and petrological studies of Volcano Fuji, V.5. On the 1707 eruption of Volcano Fuji, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Univ., Vol. 33, Part 3, 1955
36) 久野久 :
火成岩の成因系統と日本の地下構造, 科学,Vol. 26, No. 1, 1956
37) 気象庁 :
気象要覧,No.684(昭和 31 年 8 月),p.140, 1957
38) 藤本治義・黒田吉益・小松啓 :
三宅島・御蔵島の地質について, 伊豆諸島文化財総合調査報告第1分冊,東京都文化財調査報告書6,東京都教育委員会, 1958
39) 後藤守一・芹沢長介・大塚初重・金子浩昌・麻生優・梅沢重昭 :
三宅・御蔵両島に於ける考古学研究, 伊豆諸島文化財総合調査報告第1分冊,東京都文化財調査報告書6,東京都教育委員会, 1958(分担執筆)
40) 久野久 :
大島火山の地質と岩石, 火山,2nd ser., Vol. 3, 大島特集号, 1958
41) Kuno, H. :
Origin of Cenozoic petrographic provinces of Japan and surrounding areas, Bull. Volc., Sér. 2, Tome 20, 1959

参考文献

1940 年噴火に関係あるもの

岸上冬彦・矢橋徳太郎 :
昭和 15 年 7 月の三宅島噴火速報, 地震,Vol.12, No. 9, 1940
Kato, Y. :
The changes in the earth's magnetic field accompanying the volcanic eruption of Miyakezima, Proc. Imp. Acad., Vol.16, No.9, 1940
本多彪 :
三宅島の話, 測候時報,Vol.12, No.1, 1941
萩原尊礼 :
昭和 15 年 7 月の三宅島噴火, 科学,Vol.11, No.2, 1941
加藤愛雄 :
1940 年 7 月 12 日の三宅島噴火に伴へる地磁気の変化について, 科学,Vol. 11, No. 3, 1941
Takahasi, R. and Hirano, K. :
Changes in the vertical intensity of geomagnetism that accompanied the eruption of Miyakezima, in 1940, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp. Univ., Vol. 19, Part 1, 1941
水上武 :
三宅島新熔岩流の冷却による帯磁, 地震,Vol. 13, No. 6, 1941
越川善明・堤貫二 :
三宅島噴火地域附近の海洋学的調査, 地震,Vol. 13, No. 8, 1941
Minakami, T. :
Magnetization of the new lava-flows of Miyakesima Island, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp. Univ., Vol. 19, Part 4, 1941
Miyabe, N. :
Notes on crustal deformations in Miyakesima, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp Univ., Vol. 20, Part 1, 1942
Nagata, T. :
The natural remanent magnetism of volcanic rocks and its relation to geomagnetic phenomena, Bull. Earthq. Res. Inst., Tokyo Imp. Univ., Vol. 21, Part 1, 1943
Mogi, K. :
Relation between the eruptions of various volcanoes and the deformations of the ground surfaces around them, Tokyo Univ., Vol. 36, Part 2, 1958

その他

福地信世 :
伊豆諸島に産する顕晶質石弾につきて, 地質学雑誌,Vol.8, No.95, 1901
福地信世 :
三宅島の火山構造一斑, 地学雑誌,Vol. 16, No. 190, 1904
T. T. :
三宅島結晶火山礫の所在 他4件, 地質学雑誌,Vol. 22, No. 265, 1915
神津俶祐・門倉三能 :
明治 7 年の三宅島火山活動の様式に就て, 地球,Vol. 7, No. 5, 1927
束京地学協会 :
伊豆七島見学要項, 地学雑誌,Vol. 39, No. 461, 1927
渡辺新六 :
三宅島及び樽前岳産灰長石研究補遺, 岩石砿物砿床学会誌,Vol. 7, No. 1, 1932
浅沼悦太郎 :
三宅島歴史年表, 六人社,東京, 1951
桜井欽一 :
東京都三宅島の輝石, 鉱物学雑誌,Vol. 1, No. 5, 1954

第 I 図版
1. 普通輝石橄欖石玄武岩(NI57073001)・ 成層火山本体熔岩(MC)
2. 無斑晶質玄武岩(NI57072408)・ 新期寄生火山および寄生火口(YP)ベンケ根岬熔岩(YP1)
pl : 斜長石, ol : 橄欖石, mt : 鉄鉱

第 II 図版
1. 普通輝石橄欖石玄武岩(NI57080206a)・ 新期寄生火山および寄生火口(YP)1940 年瓢箪山熔岩の多斑晶部
2. 橄欖石紫蘇輝石普通輝石玄武岩(NI57080206b)・ 同上無班晶質部
pl : 斜長石, ol : 橄欖石, aug : 普通輝石, mt : 鉄鉱

第 III 図版
1. 無斑晶質玄武岩(NI570COlO4)・ 新期寄生火山および寄生火口(YP)1940 年中央火口丘熔岩
2. 普通輝石紫蘇輝石安山岩(NI57072504)・ 大野原島大根熔岩
pl : 斜長石, ol : 橄欖石, hyp : 紫蘇輝石, mt : 鉄鉱, tr : 鱗珪石

[注]
倍率は第 I-1~III-2 図版で共通
顕微鏡写真はすべて正井義郎撮影

EXPLANATORY TEXT OF THE GEOLOGICAL MAP OF JAPAN Scale 1 : 50,000

MIYAKE-JIMA

Hachijō-jima, No. 3

By NAOKI ISSHIKI (Written in 1959)


Abstract

In the area of this sheet-map, Miyake-jima, an island volcano, and several volcanic islets and stacks are included. Miyake-jima is one of the largest of the Seven Izu Islands, and is situated about 200 km southsouthwest of Tōkyō, between 34°2.5'~34°7' north latitude and 139°28.5'~139°34' east longitude. The island, which is circular in outline measuring about 8 km in diameter, is a basaltic volcano consisting of a main stratovolcano, a central cone and a number of parasitic cones and craters. The volcanic islets and stacks collectively called Onohara-jima lie about 10 km off the western coast of Miyake-jima. They are composed essentially of salic andesite lava, and may be erosion remnants of a lava dome or domes.

GENERAL PETROLOGY

Rocks constituting Miyake-jima volcano are olivine basalts, pyroxene-olivine basalts and pyroxene basalts with silica percentages ranging from 49.90 to 54.24. Pyroxene andesites are also presept, but are less common than the basalts. Most of the basalts have phenocrysts of anorthite-bytownite 10 to 30 percentages in volume and less conspicuous ones of ferromagnesian minerals in groundmasses consisting of bytownite-labradorite, clinopyroxene, iron ore, cristobalite and interstitial glass. Aphyric types are rarely present. The andesites contain phenocrysts of less calcic plagioclase, Pyroxene and titaniferous magnetite in fine-grained or glassy groundmasses.

Onohara-jima is composed exclusively of pyroxene andesite (SiO2 = 59.25 %) whose groundmass is characterized by the presence of orthopyroxene besides plagioclase, clinopyroxene, iron ore and tridymite.

All the rocks of Miyake-jima do not contam orthopyroxene as a groundmass constituent and belong to Kuno's [ see [*] below ] tholeiite series, while the Onohara-jima rock belongs to his calc-alkali rock series (hypersthenic rock series). The chemical compositions of the representative rocks are shown in Table 2.

[*]
Kuno, H. : Origin of Cenozoic petrographic provinces in Japan and surrounding areas, Bull. Volc., Ser. 2, Tome 20, 1959

GEOLOGY

Southward from the Izu peninsula of Japanese main land, the Fuji zone of Quaternary volcanoes forms along chain of small islands. These volcanoes, including Miyake-jima and Onohara-jima of this sheet-map, are underlain by a submarine ridge made up, at least in part, of Tertiary volcanic and associated plutonic rocks. The Tertiary rocks such as altered andesite tuff-breccia, altered dacite pumice tuff and pyroxene quartz diorite similar to those exposed on the Izu peninsula are found as accidental blocks in pyroclastic deposits of Miyake-jima, O-shima, Hachijō-jima and Tori-shima.

Probably in late Pleistocene, a volcanic activity took place at the present site of Miyake-jima on the submarine ridge. Lavas and pyroclastic materials of olivine basalts, pyroxene-olivine basalts, pyroxene basalts and subordinate pyroxene andesites were erupted mainly from a central crater to form a conical stratovolcano whose basal diameter is about 1O km. This stratovolcano is referred to here as main cone proper (MC).

This activity was followed by 2,000~3,000 years of quiescence, during which the surface of the cone was dissected by radial alleys and the skirt was cut by wave erosion and retreated toward the land to form precipitous sea-cliffs up to 100 m high. The essential form of the present Miyake-jima was constructed in this period.

Flank eruptions then took place at Kuwanokitairo and many other centers (older parasitic cone and crater, OP). Basalt lavas poured out from the ents, and flowed down the slope of the main cone. Some of the lavas stopped flowing halfway, but others reached the sea along the radial valley scuttmg the slope or flowed down as cascades over the already formed sea-cliffs and formed lava deltas or terraces. Scoria cones were built around some of the centers. Five explosion craters also came into existence on the southern foot. This activity commenced before B.C. 1,500, and continued for 2,000~3,000 years. Human remains buried beneath the pyroclastic deposits of this period show the absolute age and the duration of this activity. The summit-crater of the main cone seems to have also been weakly active in this period.

It is not clear, when the present form of the summit-crater was accomplished. Rejuvenated central eruption took place on the southern floor of the crater. Alternate eruptions of lavas and pyroclastic materials of olivine basalts, pyroxene-olivine basalts and pyroxene basalts built up a small stratovolcano-central cone (CC). The extruded lavas overflowed the lower southern brim of the main cone crater, and ran halfway down the slope. Before the 1940 eruption, the central cone had three summit-craters lying in an east-west direction, but the westernmost one was almost buried with ejecta of that eruption. The lavas of the central cone are petrographically similar to those of the main cone, and any distinction between these is not present. The central cone activity continued for several hundred years, during which biotite rhyolite pumice sand came flying from Kōzu-shima or Nii-jima volcano lying about 40 km northwest of Miyake-jima, and thinly covered the whole surface of this island. The eruptions of Kōzu-shima and Nii-j ima are thought to have taken place in A.D. 838 and 886 respectively, inferred from old literatures and other facts.

Shortly after the fbrmation of the main body of the central cone, flank activity started again (younger parasitic cone and crater, YP) . This activity can be classified into two types. One is central eruption near Kuwanokitairo, a parasitic knob, on the southwestern flank of the main cone, and the other is eruption along a certain fissure radiating from the center. All these eruptions occurred after the deposition of the biotite rhyolite sand of A.D. 838 or 886. Literatures tell the twelve eruptions from 10850 nwards . Of these, the earlier five eruptions in 1085, 1145, 1469, 1535 and 1595 have no detailed descriptions. The recorded eruptions in 1643, 1712, 1763 and 1835 belong to the central eruption type, while those in 1811, 1874 and 1940 to the fssure eruption type. Most of the eruptions are purely flank activity, but some are preceded or followed by summit activity.

The latest eruption occurred in 1940 along east-northeast-trending fissures on the northeastern flank, and was soon followed by summit eruption. This activity lasted for about 25 days. At present, only weak vapour cloud is emitted from the summit of the 1940 scoria cone in the central cone crater.

Lavas and scoriae erupted in historic times are mostly aphyric basalts, but a major portion of essential materials erupted in 1811 (?) and a portion of those erupted in 1874 and 1940 are porphyritic basalt with large phenocrysts of anorthite and magnesian olivine.

Islets and stacks of Onohara-jima are composed of salic pyroxene andesite, and may be erosion remnants of a lava dome or domes. However, exact age of the formation is utterly unknown.

Useful underground resources have not been found in this area. Only a hot spring is now present on the western coast of Miyake-jima.


昭和 35 年 11 月  5 日 印刷
昭和 35 年 11 月 12 日 発行
著作権所有 工業技術院 地質調査所