08093_1980
地域地質研究報告
5万分の 1 図幅
東京(8) 第 93 号
地質調査所 燃料部 小玉喜三郎
地質調査所 環境地質部 岡重文
島根大学(元 地質調査所 燃料部) 三梨昂
昭和 55 年
地質調査所
目次 I. 地形 I.1 台地 I.1.1 下末吉面(S 面) I.1.2 小原台面(M1 面) I.1.3 三崎面(M2 面) I.2 沖積段丘 I.3 沖積低地 II. 地質概説 III. 新第三系 三浦層群 III.1 三崎層 III.2 初声層 IV. 第四系 IV.1 宮田層 IV.2 下末吉層 及び 下末吉ローム層 IV.3 小原台砂礫層 及び 武蔵野ローム層下部 IV.4 三崎砂礫層 及び 武蔵野ローム層上部 IV.5 立川ローム層 IV.6 ローム層中の鍵軽石層鉱物組成 IV.7 沖積層 V. 地質構造 V.1 地質構造概説 V.2 小断層系 V.3 剣崎背斜 V.4 引橋断層 V.5 第四紀の構造運動 VI. 第四紀末期の地殻変動 文献 Abstract
地域地質研究報告
(昭和 55 年稿)
5万分の1図幅
東京(8) 第 93 号
本研究報告は 昭和 54 年度「地殻活構造及び岩石破壊機構の研究」の一環をなすものであるが, 昭和 53 年度以前に行われた研究成果がもり込まれている。 野外調査は 新第三系については三梨・小玉が, 第四系については岡が分担した。 本報告もそれぞれの分担において執筆した。
本地域の第三系に関しては, 三梨・矢崎(1968)が「日本油田ガス田図 6 三浦半島(1 : 25,000)」を発表しており, また 最近, 三梨ほか(1979)の「特殊地域図(20)東京湾とその周辺地域の地質」が刊行され, 総合的な地質の整理がなされてきた。 地層の構造解析については 小玉(1968)以下の [ 一連の ] 研究がある。 今回の調査においては 上記の資料に負うところが非常に多かった。 今回の報告においては これらの成果にもとづいて 新たに断層に関する資料をつけ加えた。
本研究を進めるに当り 三浦市役所 土木部の方々より御協力をいただいた。 また, 秋田大学 鉱山学部の国安稔 氏には 剣崎地域の地質調査 並びに 構造解析に関する未公表の資料を利用させて頂いた。 これらの方々 ならびに 資料の解析に有益な助言を与えられた構造地質研究会の方々, 本報告をまとめるに当り御協力頂いた [ 地質調査所 ] 燃料部の鈴木尉元 技官 ならびに [ 地質調査所 ] 環境地質部の垣見俊弘 課長に対し厚く御礼申し上げる。
三崎図幅地域は 神奈川県の南部にあり, 東京湾と 相模 湾を分ける三浦半島の南端部に位置している。 5万分の1地形図「三崎」の範囲は 東経 139°30'~139°45', 北緯 35°0'~35°10' の間にあるが, 陸域はこのうちの北端部にわずかな面積を占めるにすぎない。 半島の南端には せまい海峡をへだてて 城ケ島 が位置する。 城ケ島の大きさは 東西が約 2 km, 南北が約 0.5 km である。 本地域の北方には 海抜 40~60 m の 宮田 台地が連なり, 東は東京湾に面し, 南と西は相模湾に面している。 本図幅地域の北部には 侵食の進んだ 引橋 台地があり, 台地の周囲には 緩傾斜面を経て, 平坦面を広く残した標高 30 m あまりの台地が広がっている。 台地の南西端部は急崖(比高約 20 m 位)で相模湾に接している。 本図幅地域の河川は 北部の引橋を分水界として放射状に流れているが, いずれも小河川で 沖積低地の発達は悪い。 河谷は いずれも 最終間氷期の海面低下期に形成されたものと見られ, 流域が極度に侠いために埋積作用が進まず, 隆起海岸であるにもかかわらず 小網代 湾・ 油壼 湾をはじめ 諸所に溺れ谷地形を残している。
本地域の海岸ぞいには, 幅は狭いが ほとんど全域にわたり 海抜 2~6 m の段丘化した隆起海食台が発達している。 このうちの 1~1.3 m は大正 関東地震(1923 年 ; M. 7.9)の際の隆起量である。 また, 本地域は元禄 関東地震(1703 年 ; M.8.2)にも隆起したことが知られており, 元禄の隆起汀線高度は 本地域の測定可能なところで海抜 2.3~2.5 m 程度である (松田ほか(1974)による)。 さらに, それ以前の地震隆起を示す証拠として, 油壼~ 諸磯 付近には 海抜 5 m 以上のところにまで 海食崖に穿孔貝の跡を見ることができる。 この穿孔貝跡の密集帯から, IMAMUERA(1928)は 元禄の地震以前に少なくとも 2 回の関東地震級の隆起を推定した。 今村の手法は今日では必ずしも首肯し難いが, 当地域が元禄以前にも隆起を繰り返したことは疑いないところである。
本図幅地域の大部分は隆起海食台地からなる。 当地域を含む三浦半島南部の地形面区分を第 1 図に示す。
本図幅地域の北部の 引橋 を中心とした 海抜 80~85 m の侵食の進んだ台地 -- 引橋台地 -- に小範囲をなして分布する。 この面は かつて「引橋面」(関東ローム研, 1965)と呼ばれ, 南関東の多摩面に対比されたが, 後述するように, これをおおうローム層の最下部が 下末吉ローム層中の KmP グループの軽石層から始まることから(町田, 1973), 下末吉面であることが明らかになった。
下末吉面の周辺に緩傾斜をなして広がる台地で, 頂部に平坦面を残しているが, 海抜 75~45 m にわたる 侵食のやや進んだ台地である。 後述するように, 基盤を覆うローム層の最下部に Pm-1 軽石層が認められることから, 三浦半島の北部を模式地とする小原台面に対比される。
小原台面の周辺に広がり 樹枝状の河谷に細かく刻まれているが, 広い平坦面を保存している。 きわめて緩やかではあるが, 内陸から海岸へ向けて高度を減じており, 旧汀線(小原台面との境界)付近の海抜高度が約 40 m であるのに対し, 南端の城ケ島では約 30 m(いずれもローム層をのせた地表面)である。 後述するように, 基盤を覆う砂礫層の直上部を 東京軽石層が覆うことから, 関東中部の武蔵野面(M2 面) に対比される。 模式地の武蔵野面が扇状地面であるのに対し, 当地域のそれは波食台面である。 武蔵野面(M2 面)相当面が海成段丘面である例は全国的に見ても珍らしい。 このため, 三崎面は海成 武蔵野面の模式面とされている。
房総半島の南部や 大磯 丘陵等に発達している 縄文海進時(約 5~6 千年前に最高海水準に達した)に形成された 沼 面(N 面) に相当する面が 海岸沿いに推定される。 当地域では N 面の発達は悪く, 筆者らは その旧汀線高度(最高位の)を確認できなかった。 三浦半島の南部の N 面高度は 成瀬(1968)によれば 11~12 m, 町田(1973)や松田ほか(1974)によれば 15 m 以上と推定されている。 N 面はローム層をのせておらず, 地質図には示していない。
沖積低地は 図幅地域北東部の 金田 付近に海岸平野をなすほかは 発達が悪く, 各小河谷を埋積して 樹枝状に見られるだけである。 本地域南東部の 松輪 付近の沖積低地には 海岸から数段の平坦な部分が認められる。 国土地理院(未公表資料)によれば, このうちの最高位の海抜 6~10 m の埋積面が N 面の旧汀線に相当するという。
城ケ島の北部, 三崎港付近 及び 油壺湾の一部は 人工的に埋立てられている。
三浦半島の地質は これまでに多くの研究者により検討されてきたが(たとえば, 赤嶺ほか(1956)), 最近では, 三梨・矢崎(1968)による三浦半島全域の地質図で 層序・岩相・構造の詳細が組立てられ, さらに, 三梨ほか(1979)で 周辺地域との関係が詳しく論じられた。 ここでは, 上記の説明にもとづいて, 三浦半島全体の地質とその南端部に位置する当地域との関係を概観する。 第 1 表 及び 第 2 図に三浦半島における当地域の地質学的位置を総括的に示す。
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三浦半島における最古期の地層は 葉山 層群とよばれ, 古第三紀末期ないし中新世前期に対比される。 これらの地層は 半島北部の 衣笠 地塊と 中部の 武山 地塊に分かれて分布している。 葉山層群は本地域には露出していない が, 南方の沖合の 沖の山堆 には本層群が隆起帯をなして広範に存在し, また城ケ島の南方 2~3 km の海底にも小規模に露出していることが知られている(木村, 1976)。
中期 及び 後期中新世の 三浦 層群は 葉山層群を顕著な不整合 -- 田越川 不整合 -- で覆い, 半島全域に広く発達している。 半島南端部の本地域では 本層群の下部が泥岩勝ち互層 -- 三崎 層 -- として厚く発達し, 当時の堆積盆地(ネプトン)の中心部であったことを示している。 本層群の中部及び上部の堆積期においては ネプトンの中心部が半島の中・北部に移動し, 本地域には 非沈降域を指示するクロスラミナを有する薄い粗粒砂岩層 -- 初声 層 -- が発達した (三梨, 1968)。
鮮新世 及び 前期更新世の 上総 層群相当層は 主として [ 本図幅の北隣の横須賀図幅地域内の ] 衣笠地塊以北の半島北部に分布しているが, 南部にも局部的に葉山層群を直接に不整合 -- 黒滝 不整合に相当 -- で覆って薄く分布し, 林 層と呼ばれている。 [ 林層は ] 半島南端部の本地域には分布していない。
中期更新世の 相模 層群のうち最上部の 下末吉 層を除く部分は 半島の北部と南部に分かれて分布する。 このうち南部の地層は 宮田 層と呼ばれ, 下位の各層群を不整合 -- 長沼 不整合に相当 -- で覆い, 武山地塊に隣接して その南側に発達する。 ただし, 本図幅地域では これ [ = 宮田層 ] に対比される砂層が 後述する引橋断層に沿う小地溝内に局部的に認められるにすぎない。
後期更新世 -- 最終間氷期以降 -- には, 三浦半島南部は ほぼ全域が海水準変動に伴う段丘形成の場となった。 本地域では 古期から 下末吉段丘, 小原台 段丘 及び 武蔵野 段丘が いずれも波食台として形成された。 これらの段丘面を, 主として箱根 及び 富士火山に由来する降下火山灰からなる関東ローム層が薄く覆っている。
以上の段丘形成後, 最終間氷期の海退に伴って 本地域には細かい樹枝状の谷が発達した。 沖積世の海進とともに それらは溺れ谷となり, それらの一部は沖積層による埋積をまぬかれ, 油壼湾等として残存している。
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新第三系の三浦層群は, もともとは三浦半島の南端に分布する三崎層(後述)を初めとして, 同半島に広く分布する中新世, 鮮新世, さらには 現在は更新世に属する相模層群の 浜 互層までの地層に対して 一括して呼ばれていたが, 三梨(1968)が, 広域的に発達する黒滝不整合に覆われる中新世の地層だけを 改めて 三浦層群とよんだ。
三浦半島における本層群は [ 第 2 図に示されているように 本図幅の北隣の横須賀図幅地域内の ] 東西に並走する2つの葉山層群により 同半島の北部・中部・南部の3地域に分かれて発達するが, 本図幅は これらのうちの南部地域に位置する。 三梨ほか(1968)は, これら3地域に分布する三浦層群を [ 中部~北部地域の 逗子 泥岩層の上部と下部に ] 挾在する火砕質鍵層 Hk と Ok によって 第 3 図のように対比した。
本地域の三浦層群は 岩相により 三崎 層 及び 初声 層に分けられる。 三崎層は三浦半島に分布する三浦層群の最下部にあたるが, 同様の岩相を示す房総半島の 天津 層の下部に対比され, 三浦層群全体としては その中下部に位置する。 初声層は 一部で三崎層と指交関係を示しながら その上位に整合に発達する地層で, 三浦半島の中・北部の 逗子 泥岩層や 池子 層など三浦層群の中上部から上部層に対比される。 本層群は 段丘堆積物および関東ローム層に広く覆われて地質図では表現しにくいので, 第 4 図には第四紀層をはぎとった本層群の地質 及び 構造を示した。 また, 第 5 図には 東西断面における層序・岩相を示した。
古くは「三浦層群 三崎累層」(赤嶺ほか, 1956)とも呼ばれ, その後, 小池・村井(1950) [ 以下の [注] 参照 ] や三梨ほか(1968・1979)では「三崎互層」あるいは 単に「三崎層」とよばれたものに相当する。 模式地は 三浦市 三崎町 西浜 および 同 油壼湾の北部。
油壼湾の周辺 及び 小網代湾の北部には, 本層の上部で 下位層から漸移し, 上位の初声層 [ Ht ] と整合 あるいは 側方移行の関係にある スコリア質粗粒砂岩と 粗粒シルト岩 ないし シルト質砂岩の薄層よりなる互層が発達する(Ms1)。 これらの地層は かつては「油壼火砕質砂岩層」(赤嶺ほか, 1956)とよばれたことがあるが, 本報告書では三崎層の一部として一括する。 しばしば乱堆積構造が発達している。
本層の下部は 粗粒シルト岩と火砕質砂岩および火砕質礫岩の泥勝ち互層で, 砂岩層の泥岩層に対する厚さの割合は 平均 10~20 % である。 地質図では このような割合に従って本層を3分して示した(Ms2, Ms3, Ms4)。 含砂層率 15 % 以下の互層は [ 三浦半島の ] 南岸の 宮川 湾, 毘沙門 湾, 松輪 湾の周辺に発達する(第 5・6 図)。 また, 油壺湾や小網代湾の南岸には 細粒砂の薄層をまれにはさむ中粒シルト岩層が発達する。 一方, 含砂層率 30 % 以上の互層は 浜諸磯 , 三崎町, 観音岩 [ ← 観音山 ? ] 及び 城ケ島の西部に分布する。 これらの岩相変化部には しばしば 著しい乱堆積構造が発達する(第 5・6 図)。 本層下部は かって「三崎町泥砂岩互層」(赤嶺ほか, 1956)と呼ばれていたものに相当する。
三崎層中には多数の火砕質鍵層がふくまれているので, それらを用いて 断層や褶曲の構造解析や岩相の側方変化を検討することが 可能である(第 7 図)。 たとえば, 本層は [ 三浦半島の ] 南岸にそう 剣崎 背斜(後述)を境にして地層の厚さに著しい差があることが示される( [ 地質図と一緒に示されている C~C' の ] 断面図参照)。 また, [ 第 7 図に示されている ] 鍵層 S0 は 西部 [ = 第 7 図の諸磯~三崎・馬宮~通り矢~宮川・岩堂山~毘沙門 ] では本層 [ = 三崎層 ] の上部に位置するが, 東方 [ = 第 7 図の松輪・間口~剣崎 ] では 上位の初声層 [ Ht ] に側方移行するため 松輪付近では初声層の中に発達する。
本層から化石の産出は報告されていない。
[ 本層の ] 層厚は 1,300 m 以上で, 本層の最下部は [ 三浦半島の ] 南岸沿いの背斜軸部でみられるが, 下限は不明である。
古くは三浦層群 鎌倉累層の下部の「初声凝灰角礫岩 及び 凝灰質砂岩層」(赤嶺ほか, 1956)とも呼ばれ, その後, 「初声凝灰質砂岩層」(三梨ほか(1968); 三梨ほか(1979))あるいは 単に「初声層」と呼ばれた。 模式地は [ 本図幅の北隣の横須賀図幅地域内の ] 三浦市 初声町。 本図幅地域では [ 北~北東部の ] 引橋と金田, [ 三浦半島の南東部の ] 南下浦 と松輪, [ 本図幅地域の北西部の ] 油壼と 三戸浜 [ ← 三戸浜は本図幅の北隣の横須賀図幅地域内 ? ] に分布するほか, 城ケ島の東岸にも発達する。
岩相はスコリア 及び 軽石質の礫岩及び砂岩からなり, クロスラミナが発達する。 油壼や城ケ島に発達する下位の三崎層の砂勝ち互層 [ Ms1~4 ] と比較すると, 白色軽石をひんぱんに含むことや 著しいクロスラミナの発達する特徴がある。 下位の三崎層の上に整合に重なるが, 一部指交関係が認められる(第 7 図)。
三梨ほか(1968)は 本層中よりゴマシオ状の火砕質鍵層を見出し, これを北部地区の逗子層中の鍵層 Hk や Ok に対比した。 そして, 本地域では Hk~Ok の地層の厚さが北部地区にくらべ著しく薄いことを指摘した(第 3 図)。
大きなクロスラミナの発達することから 水深 200 m 以浅の環境に堆積したと推定される。
本地域での層厚は 600 m である。
本図幅地域に発達する第四系は 主として段丘堆積物と これを覆う関東ローム層, 及び 沖積低地を埋積している沖積層からなる。 このほか 地質図には示されていないが, 引橋断層(後述)の活動によって生じた小地溝を埋めて, 更新世中期の宮田層相当層が ごく局部的に分布する。
地形の項で述べたように 本地域の段丘面は 沖積段丘を除き 3つの面に区分され, すべて波食台として形成された海成段丘面である。 波食台を覆う段丘堆積物は 厚くても 1.5 m 以下で, ほとんど認められないところも多い。 これらの上を風成ローム層が覆っている。 地質図上には 各段丘面に対応して 段丘堆積物とローム層を一括して示してある。 たとえば, 下末吉面に存在する地層は 下位から 段丘堆積物(ほとんど認められない), 下末吉ローム層, 武蔵野ローム層 及び 立川ローム層からなる。 しかし, 重複を避けるため, 以下では 各段丘面を構成する堆積物と これを整合に覆う最下位のローム層を セットとして説明する。
三浦半島 南部の第四系の対比表を第 2 表に示す。 また, 本地域に見られるローム層の模式総合柱状図を第 8 図に示す。 関東ローム層は 標式的に発達している大磯丘陵(たとえば, 上杉(1978))などに比べると厚さも薄く, 鍵軽石層の多くが欠除している。 なお, ローム層のうちの上部の武蔵野ローム層と立川ローム層を合わせて 新期ローム層と呼ぶことがある。
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更新世中期の宮田層(命名 : 山川(1910))は 本図幅地域の北隣の [ 横須賀図幅地域内の ] 宮田台地を中心に発達している。 従来, 本層は本図幅地域には分布していないとされていたが, 最近, 後述する引橋断層に平行する狭小な地溝内に発見された(小玉, 1975)。
本層の分布は [ 図幅地域北東部の ] 金田 沖ノ谷の明治大学グランドから南下浦町 念仏塚 [ 位置不明 ] にかけて 延長 1.5 km, 最大幅 50 m の地溝状凹地に限られている( [ 後述する「V.4 引橋断層」の項で示している ] 第 24 図参照)。
本層は細砂を主とし, 下部に細礫ないし中礫を含み, しばしばシルトないし粘土の薄層を挾んでいる。 細砂中には雲母片が多く混入している。
下位の三浦層群 初声層 [ Ht ] に対し 傾斜不整合状にアバットして堆積している(第 9 図)。 上位は風成の武蔵野ローム層 [ M1L or M2L ] に不整合におおわれている。
本層は標高 10 m から 35 m のところにほぼ水平に堆積しており, 層厚は 25 m 以上(上限不明)である。
上述のように, 宮田層は 従来は [ 本図幅の北隣の横須賀図幅地域内の ] 南下浦断層と武山断層 [ 第 1 図参照 ] の間の凹地にしか認められていなかったが, 南下浦断層以南の本地域にも発見されたところから, 同層はかつて三浦半島の中南部に広く堆積していたが, 更新世後期の隆起と削剝作用により失なわれたものと考えられる。
下末吉層は 大塚(1930)により 横浜市 鶴見区 下末吉を模式地として命名されたが, 関東第四紀研究会(1970)によって このうちの下部は鶴見層として分離され, 上部のみを再定義された。 模式地の下末吉層は 波食台に堆積した中粒砂 及び 砂礫層からなり, 層厚は 2~5 m 位である。 下末吉ローム層は 関東ローム研究グループ [ 以下の [注] 参照 ] (1965)の命名による。
本地域では, 引橋台地を中心とした 海抜 80~85 m, 約 1 km 四方に小分布するにすぎない。 引橋台地の露頭(第 10 図)には 最下位に KmP グループの軽石層, 中位に Pm-1 軽石層が認められる。 町田(1973)は 基盤(三浦層群) の上に薄い砂層(下末吉層)があり, その直上に KmP グループの軽石層が乗ることを認めているので, 筆者らは この砂層が下末吉層か 初声層 [ Ht ] の風化帯か明かではなかったが, 一応 下末吉層とした。 KmP グループの軽石層は 黄橙色の厚さは約 10 cm である。 Pm-1 軽石層は 白色細粒で, 厚さは約 4 cm である。 下末吉ローム層は 厚さ約 3 m, 粘土化の進んだ褐色ローム層で, 上位を厚さ約 5 m の新期ローム層に不整合におおわれている。
引橋台地は かつては 関東ローム研(1965)により 引橋面と呼ばれ, 多摩面に対比された。 その後, 町田(1973)は, 引橋台地ではローム層の最下部が KmP グループの軽石層から始まることから, 引橋面を下末吉面と小原台面との中間に位する面とした。 しかし, 筆者らは, 北西方の藤沢図幅地域(岡ほか, 1979)などの下末吉層とローム層の関係からみて, 特に中間的な面を設定する必要はないと考え, 引橋面を下末吉面に含めておく。
小原台砂礫層は 走水団研グループ(1965)により 横須賀市 走水 ( [ 本図幅の ] 北隣の横須賀図幅地域)を模式地として命名された。 その直上部のローム層は 同グループにより「小原台ローム層」と称され, 下末吉ローム層に対比される可能性を示した。 その後, 町田(1971)は [ この ] ローム層の下部にある小原台軽石層 [ OP ] を 横浜市 三ッ池の「クリヨーカン軽石」や相模原台地の「藤沢軽石」に同定し, このローム層を下末吉ローム層の最上部に位置づけ, 小原台面を「下末吉 2 面(S2 面)」と称した。 その後, 吉川ほか(1973)は 各地にみられる小原台面相当面を M1 面と称した。
本地域の小原台面は [ 図幅地域北部の ] 引橋台地(下末吉面)の周囲に, 海抜高度 70~50 m で 侵食のやや進んだ緩傾斜の台地として分布する。 しかしながら, その構成層は 露頭 -- とくに基底の -- がほとんどなく, わずかに [ 三浦半島の東海岸の雨崎の西南西方 1.5 km 強の ] 西谷戸 の北西方の1カ所で 基盤の直上部に [ 下末吉ローム層(SL)中の鍵軽石層である ] Pm-1 軽石層が認められたことから 小原台面構成層であること [ 第 8 図参照 ] が確かめられただけである。 この地点では 三浦層群からなる基盤を削剝した不整合面上に 厚さ数 10 cm の砂まじりのローム層(水中堆積と思われる)があり, その下部に厚さ 4 cm, 白色, 細粒均質で雲母を含む Pm-1 軽石層が存在する。 この露頭は, Pm-1 軽石層が水中堆積しているという点では, 模式地の小原台砂礫層に対比することができる。 しかし, 模式地において小原台砂礫層の直上に特徴的な小原台軽石層 [ OP ] は 本地域では確認できなかった。
他の露頭(たとえば 砲台跡付近 [ 位置不明 ] ; 第 11 図の Loc. 4 参照)では 明らかに小原台面であるのに 小原台ローム層(M1L [ ← 武蔵野ローム層の下部 ? ] )が存在せず, 東京軽石層 [ TP ] の直下の粘土化したローム層(クラック帯)すなわち M2L [ ← 武蔵野ローム層の上部 ? ] からはじまるものもあった。
なお, 引橋台地で観察された小原台軽石層 [ OP ] について記すと, Pm-1 軽石層の上 37 cm のローム層の上位にある厚さ 4 cm の橙色の軽石層と, その上位 60 cm のローム層の中にパッチ状に散在する同質の軽石が それ [ = 小原台軽石層 ] である 。 このような外観は 横浜地方の「クリヨーカン軽石」の堆積状態とよく似ており, 小原台軽石層(藤沢軽石層も同じ)が 給地の箱根火山から東方のごくせまい範囲に厚く, 南北方向へは急激に薄く降下したことをうかがわせる [ 以下の [注] 参照 ] 。
以上のような堆積状態からみて, 当地域の小原台面は波食台として形成されたが, 堆積物 及び その直上のローム層(M1L [ ← 武蔵野ローム層の下部 ? ] )がきわめて薄いため 上位のローム層(M2L [ ← 武蔵野ローム層の上部 ? ] )の降灰までの間に 多くの場所で失われてしまったとも考えられる。
小原台面を不整合におおうローム層は 武蔵野ローム層の上部 [ M2L ] 及び 立川ローム層 [ TcL ] からなり, 本地域における厚さは最大で 10 m 程度である。
なお, 当地域の中南部の 岩堂山 (標高 82.4 m)とその東方約 200 m 及び 北方約 600 m の3カ所で ごく小区域をなして標高 80 m を越える地点がある。 これらの地点には 基盤の三浦層群を東京軽石層 [ TP ] 以上のローム層が直接覆っていることから, 小原台砂礫層の堆積当時は残丘状に突出していたと思われるが, きわめて小面積であるので 便宜上 地質図には小原台砂礫層として塗色した。
三崎砂礫層は 町田(1970)により 本図幅地域を模式地として命名された。 武蔵野ローム層の上部は 武蔵野台地等における従来の武蔵野ローム層(関東ローム研, 1965)そのものに当るが, 前述のように 小原台面を武蔵野 Ⅰ 面(M1 面), 小原台ローム層を武蔵野ローム層下部(M1L)としたため, 従来の武蔵野ローム層は同層上部(M2L)と呼ぶことにする。 ただし, わずらわしさを避けるため, 本節において単に武蔵野ローム層と称した場合は M2L [ = ローム層上部 ] を指すものとする。
三崎砂礫層は, 小原台面の周辺に広がる三崎面の構成層として 海岸地域及び城ケ島の台地に広く分布しており, 海食崖の至るところで基盤の三浦層群を不整合におおう本層を観察することができる (第 11 図 及び 第 12 図参照)。
三崎砂礫層の主部は スコリア・軽石・小円礫まじりの淘汰のよい中粒砂からなり, 上部はロームまじりのシルトや砂質シルトからなることが多い。 一般に青灰色または褐色を呈し, 一部は暗褐色を呈する。 層厚は 0.5~1.5 m で 一般に薄い。 三浦層群の上に形成された波食台面には 基盤岩が礫化した現地残留性の基底礫が認められ, なかには その上に砂層がほとんど認められないところもある。
武蔵野ローム層は三崎砂礫層 [ Ms1~4 ] を整合に覆い, 褐色から暗褐色を呈する やや粘土化したローム層で, 本地域での層厚は 4~5 m である。
ローム層の中には鍵軽石層が3枚あり, それぞれの軽石層の直下には暗褐色のクラック帯 [ 以下の [注1] 参照 ] が発達している。 軽石層は 下位より 東京軽石層 [ 以下の [注2] 参照 ] , 三色旗軽石層, 青ヒゲ軽石層と呼ばれている。 東京軽石層は 厚さ 20~30 cm の黄橙色の軽石で, 粗 → 細の粒度組成サイクルにより 2~3 層に区分できる。 三色旗軽石層は 厚さ 10~20 cm, ところによっては 40 cm くらいまであり, 黄橙色から赤橙色の軽石からなる。 粒度は均一である。 青ヒゲ軽石層は 層厚 0.5~5 cm で, 多くの場合はローム層の中に密集した 黄色ないし白色の軽石粒として認められる。
武蔵野ローム層は 上位を厚さ 3 m くらいの立川ローム層に不整合に覆われている。 両ローム層の不整合面は クラック帯により明瞭に指摘できる露頭が多い。
三崎面を構成する三崎砂礫層と武蔵野台地の武蔵野礫層は いずれも, 同層準の武蔵野ローム層に整合におおわれている。 すなわち, 武蔵野台地では東京軽石層と下位の礫層の間に 1 m 前後の粘土化したローム層があるが, 三崎面にも同じ位置に 0.5~1.0 m の粘土化した暗褐色のローム層がある。 したがって, 両砂礫層は互いに同時期の堆積物であるが, 武蔵野礫層が扇状地礫層であるのに対し, 三崎砂礫層は波食台堆積物 [ 以下の [注] 参照 ] である(町田, 1973)ことから, 三崎面はしばしば海成の武蔵野面の模式面とされる。
立川ローム層は 関東ローム研(1965)により武蔵野台地の立川付近を模式地として命名された。 本図幅地域では すべての台地において 下位の武蔵野ローム層を不整合に覆っている。 直下の武蔵野ローム層には暗褐色のクラック帯が見られることから, 本層との識別は比較的容易である。
本ローム層は 明褐色で粗鬆な感触があり, ほとんど粘土化していない。 本層の層厚は 3 m くらいである。
本地域に分布するローム層中の顕著な鍵層としては 下末吉ローム層の KmP グループの軽石層と Pm-1 軽石層(Pm-1), 武蔵野ローム層中の小原台(OP), 東京(TP), 三色旗(SP)及び 青ヒゲ(CCP-1) の各軽石層が認められる。 町田(1971)による軽石層の鉱物組成を第 3 表に示す。 このうち Pm-1 には角閃石と黒雲母, OP には角閃石が特徴的に認められるが, そのほかは普通輝石 及び 紫蘇輝石からなる。
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各軽石層のフィッション・トラック年代(FT 年代と略称)は 第 8 図の柱状図わきに示されている(町田(1971)による) [ 以下の [注] 参照 ]。
| CCP-1 | : ? |
| SP | : ? |
| TP | : 49,000 ± 5,000 y.BP |
| OP | : 66,000 ± 6,000 y.BP |
| Pm-1 | : 70,000~90,000 y.BP |
三浦半島南部の沖積層については, ボーリング資料にもとづいて松島(1976)により総括されている。 それによれば, 半島の東岸と西岸では沖積層の様相が異る。 西岸(相模湾側)の 小田和 湾 [ ← 本図幅の北隣の横須賀図幅地域内 ] , 宮田湾 [ ← 横須賀図幅地域内 ] , 三戸浜などの溺れ谷を埋積して発達する沖積層は 小田和 層とよばれ, 淘汰不良の泥相が卓越し, 谷沿いの最上部に泥炭層が形成されている。 層厚は最も厚いところで約 30 m である。 本地域での資料は 北端部の三戸浜に続く谷沿いに見られるだけであるが, そこでの層厚は最大約 20 m であり, 一般に下半部は砂まじり泥で貝殻片を含み, 中部はシルトまじり砂または砂まじりシルト, 上部は泥炭または腐蝕まじりシルトからなる。
半島東岸(東京湾側)の沖積層は 野比 層とよばれ, 小田和層に比べると砂層がよく発達するのが目立つ。 最大層厚は [ 本図幅の北隣の横須賀図幅地域内の ] 上宮田付近の約 30 m である。 本地域では金田低地に野比層が発達するが, 基盤に達するボーリング資料がなく 下部層の様子は不明である。 最上部を構成する堆積物はかなり粗く, 中礫大の泥岩・砂岩礫を含む粗砂ないし中砂が 谷奥まで広く分布している。 層厚も不明であるが, 海岸線付近にも基盤岩が露出しているところから, ごく薄いものと思われる。
[ 三浦 ] 半島南岸の沖積層についてはボーリング資料がないが, 地表付近の観察 及び 地形から見て 半島西岸の沖積層と同様であり, 層厚も 10 m 以下と思われる。 松輪付近の地表から約 2 m までの記録によれば, 淘汰不良の粘土・シルト・砂まじりシルト等からなり, ところどころに 腐蝕及び谷壁崩壊によってもたらされた 基盤の角礫をまじえている。
本地域は 新第三系基盤の [ 2帯の ] 葉山層群で分けられた3帯の三浦層群分布域の最南端に位置し [ 第 2 図 ] , 東西方向の褶曲 及び 様々な方向の断層が発達している。
第 13 図は 本地域の新第三系の構造を示す走向線図である。 図から明らかなように本地域北東部には 金田を中心として東へ開いた半ベーズン構造があり, 反対に [ 本図幅地域北西部には ] 小網代 湾を中心として 半ドーム構造が形成されている。 このような構造と平行するように 小網代湾の南縁に沿って東西性で北傾斜の逆断層が, 一方, [ 図幅地域北部中央付近の ] 引橋 から [ 三浦半島の東岸沿いの ] 小浜 にかけては 東西性の引橋断層が発達している。 三浦半島南岸に沿っては 東西性の剣崎背斜(三梨ほか, 1979)が発達している。
以上のような東西性の断層や褶曲構造の周辺には, 変位の規模が数 m 以下の小断層が非常に多く発達している。 小断層の解析結果は次節にのべる。
本地域には多数の小断層が発達し, それらの中には 様々な走向傾斜を有するものがあるが, これらを次に示す基準で5種類の断層系に識別した。
第 4 表には 上記の基準に従って各露頭で分類された5つの断層系の特徴がまとめられているが, ここでは それらを時代の古い方から A, B, C, D, E 断層系とよぶことにする。 以下に各断層系についての主な性質を述べるが, 詳しくは小玉(1968・1974・1979)を参照されたい。
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この系は 本地域を通じて最も古期に発達したもので, 以下に述べる他の全ての断層系により切断されている。 断層は いずれも南または北へ低角度で傾斜する逆断層で, 走向は大部分がほぼ東西だが, かなりバラつきが見られる。 この断層系は図幅域内のほぼ全域に分布するが, とくに城ケ島, 宮川, 剣崎などの [ 三浦半島の ] 南端地域での発達が著しい(第 14 図)。
断層面は 通常 ほぼ完全に固結しており, ハンマーでたたいても 断層面を出すことは容易でない。 落差の規模が比較的大きい断層では 地層のひきずりがみられる。 断層による地層の変位量は ふつう 5~10 cm のものが多いが, 4~6 m に及ぶ変位も観察される。
共役の逆断層をもちいて 造構応力場の復元を行ない, 各露頭で求めた主応力軸分布を第 15 図の A に示した。 これをみると, 最大主圧力軸 [ 以下の [注] 参照 ] (σ3)は ほぼ水平だが, その方位は南北方向を中心に かなりバラついている。 一方, 最大主張力軸(σ1)はほとんど鉛直方向に集中している。 このように, 本断層系は全般的には 水平にちかい南北方向の圧縮応力場でてきたことが分かる。 共役断層面のなす剪断面角は平均 67° [ ← 第 4 表では 69° ] で, 他の断層系よりきわ立って大きい(第 16 図の A)。
走向 隔離 [ 以下の [注] 参照 ] の成分をかなりもつ正断層・逆断層・走向ずり断層で, 断層の走向は WNW - ESE が多い。 断層面は通常 固結しているが, ときにはわずかに開離して 細粒の破砕物質で充塡されている場合がある。 断層による転位量は 他の断層系に比較すると小さく, 走向方向への断層面の連続性もとぼしい。
本断層系は 本図幅地域の全域に分布するが, とくに 城ケ島, 雨崎, 岩鉾 [ 位置不明 ; 鋒 もしくは 岩浦 ? ] , 油壺付近では 他より発達頻度が高い。 城ケ島(第 14 図)の例では, 本断層系のうちの1つは走向が E - W で北および南へ急傾斜する左 水平ずり断層で, 他の1つは走向 ENE - WSW で南へ急傾斜する右 水平ずり断層であり, 両者は互いに共役関係にある。 落差は最大でも 30 cm をこえず, 面は完全に固結している。
本地域北東部の松輪, 雨崎, 岩鉾 付近には走向が WNW - ESE ないし WSW - ENE で 南へ急傾斜する本断層系が密集して発達するが, これは付近に発達する引橋断層(後述)と平行している。 これらの断層群は 隔離のセンスからは正断層と逆断層に分類されるが, それらを共役断層として組合わせて造構応力を求めると, 前者は右移動の卓越した正断層, 後者は左移動の卓越した逆断層で, 南北方向の主張力によって発達した断層であることが解析される(第 17 図)。 断層同士は幅 10~20 cm で平行して発達し, 断層帯を形成している。 断層面は厚さ 5~10 mm の固結物質で充塡されている。
油壼付近にも本断層系に属する断層が発達するが, その特徴は上述のものとよく似ている。
各地の露頭で共役断層より求めた造精応力の分布を第 14 図の B に示す。 最大主張力軸(σ1)は 一般に N - S 方向を向いているが, 場所により やや方位の異なるものもある。 σ1 の傾斜は少ないが, 前述の引橋断層の周辺では 北へ最大 40°位まで傾斜する。 剪断面角は平均 31.8°であるが, 大部分は 20°から 40°の範囲にある(第 16 図の B )。
本地域に最も頻度高く発達する断層系で, 転位の規模も大きい。 前述の A・B 系を切断し, 後で述べる D・E 系の断層によって切断されている。
この断層系は 本図幅地域内の全ての場所に発達しているが, 本地域北東部の金田付近は比較的発達が少ない。 断層は いずれも 傾斜移動の卓越した正断層であり, 走向は NNE - SSW ないし NNW - SSE で 70~90°で東および西へ傾斜している。 断層の落差は 1 cm から 15 m 以上まである。 断層面は一般に固結しているが, 一部 開離しているものも多い。 著しい剪断帯あるいは地層のひきずりを伴うことが多い。
本断層系の最も典型的な例も 城ケ島の西部における平面スケッチで示す(第 14 図)。 第 14 図のように 走向は 一般に N30°E 方向によく平行するが, 時に N - S ないし NNW - SSE に変化することがある。 これらの正断層には西側が落ちるものと東側が落ちるものとがあり, 一定の規則的な間隔でそれらが交互に発達して 小規模なホルスト, グラーベンを構成する。 ただし, くわしくみると 西落ちの断層と東落ちの断層では 転位の規模において前者が卓越している。
[ 三浦半島の ] 南端の宮川町 観音岩 [ ← 観音山 ? ] 周辺の海食台の上でのルートマップ(第 5 図)には, 本断層系の発達の様子がよくあらわされている。 この付近の三崎層は ほぼ東西の走向で北へ 50~55°急傾斜するが, これを切って N 30~40°E 走向のほぼ垂直な西落ちの断層が発達している。 また, これと共役をなして ほぼ N - S 走向をもつ東落ち断層が発達する。 この地域では両者の規模はほぼ同等である。 最大変位量は 10 m 以上に達するものがあり, 厚さ 20~30 cm の剪断帯が形成されている。
断層の 鏡肌 の上に まれに 断層の実移動の痕跡である条線が発達している。 これらの条線は, 本断層の転位が わずかに走向移動成分をもつ傾斜移動の卓越したものであることを示している。
共役断層から各地における造構応力場を復元すると第 15 図の C のようになる。 これによれば, 最大主張軸(σ1)は E - W ないし WNW - ESE で ほぼ水平に分布し, σ2 および σ3 は σ1 と直交する大円上にバラつく。 σ1 軸はほぼ水平だが, 半島の西側では 約 10°ちかく西へ傾斜している。 これにより, 本断層系は 地殻のわん曲に伴う東西方向の引張応力場で形成されたことが推定される。 本断層系と南関東全体の地殻変動との関係については 小玉(1974)が検討している。
共役断層より得られた剪断面角は平均 32.1°で, 25~35°の範囲に分布する(第 16 図の C)。
本断層系は A 系統と同じ逆断層だが, 上述の B 系統や C 系統の正断層群を切断する。 新期に発達した逆断層系で, 断層面は完全に開離している。
本断層系の発達は非常に局部的で, 宮川, 毘沙門, 剣崎および松輪地域にのみ分布する。 本断層系に属する2つの共役セットのうち 1つは走向が NE - SW ないし N - S で 西へ低角度で傾斜する逆断層で, 他は走向 NW - SE で東へゆるく傾斜する逆断層である。 これらを用いて 各露頭ごとに求めた造構応力場の復元結果を第 15 図の D に示す。 このように, D 断層系は 大略 東西方向からの水平な圧縮応力場のもとで発生したものであることが示される。
共役断層の解析より求めた剪断面角は 平均 64°であり, 10°から 110°の範囲にバラつく。 A 系統と同様に 60°以上の値をホすことは 逆断層系の特徴であるが, A 系統よりやや小さい値を示している。 これは 生成条件がより浅い地層内で発生したことを示すと推定される。
本地域における最も新期の断層系で, これまでのべた全ての断層系を切断している。 ただし, ごくまれであるが, 前述の C 系に属する断層が本断層系を切っている場合がある。 このような断層は いずれも 複数回活動をくり返えした形跡がある規模の大きな断層で, 本断層系の発達後に それらが弱線に沿い 再活動したものと推定される。
本断層系の発達は とくに [ 三浦半島の ] 南端部の松輪から三崎にかけての地域で著しい。 これに対し, 北部の油壺や金田付近では あまり発達していない。 断層面は 通常は開離しており, 幅 0.5~1 cm のすきまを 細粒の粉砕物質が充塡している。 破断面の幅に比較すると断層に沿う転位量は小さく, 節理状に ほとんど転位のないものも認められる。 断層線は直線的で 互いに平行している。 剣崎における灯台の下の海食台上の断層スケッチは この状態をよく示している (第 18 図の中の1点鎖線)。 ここでは NW - SE 走向で 左水平隔離の断層が卓越しているが, まれに WNW - ESE 走向で 右水平隔離の断層がある。 両者とも断層の傾斜は非常に急で 互いに共役関係にある。 このような発達様式は宮川地域にもみられる(第 5 図)。
城ケ島の西端では NW - SE ないし WNW - ESE 走向で 傾斜が急な 開離した断層が発達している。 これらも E 系統に属する(第 14 図)。
第 15 図の E は各地における主応力軸の向きを示した図で, これをみてわかるように, 最大主張力軸(σ1)はほとんど水平で NNW-SSE 方向にあり, σ2 軸はしばしば垂直となる。 これは, E 断層系が南北方向に卓越する引張応力場において 走向移動型や傾斜移動型の断層として発達したことを示している。
剪断面角の大きさは B 系統や C 系統よりもやや大きく, 平均 36°である(第 16 図の E)。
本地域の南端部には 三崎層の中に東西方向で軸長 10 km 以上の背斜構造がみられる。 この背斜構造は 三梨ほか(1979)によって 剣崎背斜と命名された。
本背斜は 東側の剣崎および毘沙門地域では 軸部が陸上に露出しているが(第 19 図), 毘沙門以西では 軸部は海中に没し, 北翼部のみが露頭にあらわれている。 本地域の最も西側では 三崎~城ケ島間の水道を背斜軸が通っている。 地層の傾斜は 南翼で 60~90°(一部逆転), 北翼で 40~70°の閉じた背斜構造を示している。 断面のとりかたによって背斜の形態は様々に変化するが, 軸部の見られる剣崎では背斜の頂部がわりあい平坦で, 翼部で急変し, 特に 南翼は急傾斜を示すようになる。 本地域の西部の三崎~ケ島間では南翼で地層が逆転しており, 軸面が北へ 45°程度傾斜している。
褶曲軸をはさんだ両翼での層厚, 層相に注目してみると, 本地域西部では 北翼は南翼に比べ4倍程度の厚さの地層が発達する。 北翼では 泥岩や砂岩泥岩互層から構成され 深い環境 [ ? ] を示すが, 厚さの薄い南翼では クロスラミナの発達する凝灰質砂岩が卓越して 浅い環境 [ ? ] を示している(三梨(1973); 三梨ほか(1979); 関東新生代構造研究グループ(1977))。 東側の剣崎地域では 層厚の変化に関しては西側ほど顕著ではないが, やはり南翼が北翼に比して 2 / 3 程度に減ずる (第 20 図)。 細部にわたって比較してみると, 泥岩層部分だけの層厚は 南翼のほうが北翼に対して 60% 程度であるのに対し, 火砕岩層部分だけの層厚は ほとんど変化していない。 結局, この剣崎地域の層厚変化は泥岩層部分の変化に依存しているといえる。 さらに, 層相は 層厚の薄い南翼において 火砕質岩が多くなり, また 泥岩層に混入する火砕粒も顕著となっている(国安, 1979)。 また, 背斜軸をはさんだ両翼には 著しい乱堆積構造がよく発達している。 以上の結果は 背斜軸部を境とする層厚・層相の変化が 堆積時に生じたことを示している。
本背斜の生成時期は, 背斜構造が相模層群の堆積以前に生じた高角な南北性正断層(C 系統) [ 以下の [注] 参照 ] に切られていることから 更新世中期以前とされる。 また, 類似の褶曲構造をもつ房総半島南部では, 褶曲している地層は 鮮新世~更新世前期の上総層群である。 これらより, 褶曲の時期は更新世前期末の長沼不整合の形成時期に対比される。
一方, 本地域に発達する小断層は 新旧を問わず 本背斜軸部付近で非常に多く分布している。 また, 剣崎地域では 低角逆断層(A 系統)の応力場が両翼で変化している。 これは, 背斜軸部が 褶曲形成時からそれ以降も 応力集中の場であったことを示していたと考えられる。
以上のことを総括すると, 本背斜は 堆積過程から基盤がブロック状の変形をしており, 基盤ブロックの差別的な昇降運動によって背斜が形成され, さらに その運動が本地域に発達する小断層とも密接に関わりあっていると考えられる (三梨(1973); 三梨ほか(1979); 関東新生代構造研究グループ(1977); 国安(1979))。
引橋断層は KANEKO(1968)によって 地形写真の判読から示された断層である。 本稿では これに平行する地学的な断層構造について記載し, それらについても同様に「引橋断層」と呼ぶことにする。
KANEKO(1968)によると「 この断層によって9つの地形の ridge が右横ずれに 40 m まで変位している。 ただし, 断層のトレースは連続的ではなく, 断続的なセグメントがエシェロン状に配列している 」とのべている。 また, この方向 [ = 引橋断層の走向 ? ] には活断層に特有な様々な断層地形が発達している(第 21 図)。
このような地形に沿ういくつかの露頭では 実際に地質学的な断層露頭をみることができる。 第 22 図はその1つで, ここでは引橋断層に平行な小断層が初声層中に発達し, これと平行して初声層中に「小地溝」が形成されている。 この中には 更新世の宮田層が埋め立て状に堆積している。 地溝の断面は様々な水準レベルでみることが可能であるから, これらを総合すると「小地溝」の深さは 30 m 以上に達する。 小地溝の下部は幅が 1~2 m に狭まり, 砂礫層や偽礫まじりの細砂層が堆積しているが, 上部では 幅 50 m 以上にわたり粘土の薄層を狭在する細砂層が堆積している(第 23 図)。 地溝の壁面付近で これらの地層はわずかに撓曲したり もまれているが, 中心付近はほとんど乱されていない。 一部の壁面に 鏡肌のように平坦なすべり面もみられる。 これらのことは, 宮田層の堆積後も この小地溝にそって断層的な変形が進行したことを示している。 第 24 図は, このような露頭が WNW - ESE 方向にほぼ 1.5 km 以上にわたり連続していることを示している。
一方, この「引橋断層」周辺の初声層の中には 多数の小断層が本断層に平行して発達している。 これらは 10~20 km 間隔に密集した平行する断層帯を形成しており, 面は完全に固結していて, その形状・走向・傾斜や 他の断層系との関係から 本地域に広く発達する小断層系統のうちの B 系統に対比された。
そして B 断層系はそのあとで形成された C 断層系で切られ, 両者は更新世中期の相模層群に覆われているから, 結局, 引橋断層の発生時期は 更新世前期末期の長沼不整合の時期となり, その後, 更新世後期の三崎面の形成後まで 再活動をくり返したと推定される。
三浦層群 三崎層 [ Ms1~4 ] の堆積過程における構造運動については すでに三梨(1975), 三梨ほか(1979)によってふれられている。 すなわち, 三浦半島の南端に発達する東西方向の剣崎背斜をはさんで三崎層の厚さをみると, 南翼部に比較して 北翼部の地層が約4倍ほど急に増大している。 また, 南翼部では岩相も北翼部に比較して粗くなっている。 同様の現象が剣崎背斜の軸部付近でも現われていることが 国安(1979)により示された。
このような現象は, 三崎層の堆積当時に 堆積盆地の基底が北側で急に深くなるような褶曲運動を伴っていたと解釈される。 しかも, 撓曲は 比較的せまい範囲で急激に起ったことが, 上述のような地層の層相・層厚の急激な変化をまねいたと解釈される。 実際, 地層の堆積当時に かなりの構造運動があったことが 三崎層の中に深層型地辷り(三梨・垣見, 1964)などの層間異常構造が多数発達することにより示されている。
三浦層群の上部層の初声層 [ Ht ] が堆積する時期には この地域はほぼ一様な浅海性の環境を示し, 著しい差別的昇降運動はもはや進行していなかったと解釈されている(三梨ほか, 1979)。
第四紀前期末の長沼不整合の時代になったとき この地域の構造単元が再活動し, 剣崎地域では 撓曲運動のセンスが逆転して, ここに背斜が形成された。 この過程に前後して A 系の小逆断層が多数発達したと解釈される。
前述の小断層系のうちで最も時代の古い A 断層系は 南北圧縮応力場で形成された逆断層だが, これと褶曲構造との関係は城ケ島の南西部で見ることができる。 すなわち, ここでは 北端で約 80°南へ傾斜する三崎層が徐々に傾斜をかえ, 南端ではゆるやかな向斜構造をへて北ヘ傾斜するが, A 系の逆断層はこれらの構造とは無関係に これを切って発達している(小玉, 1968)。 これより, 本地域の小断層系は いずれも褶曲構造形成期より後期に形成されたものとみなせる。 ただし, 褶曲と断層が相前後して形成され, 成因的に密接なつながりをもって形成された可能性は, [ 三浦 ] 半島の南岸沿いに断層の発達が著しいことや, 剣崎地域で背斜軸部に発達する逆断層が褶曲に沿って変化していることなどから示されている。
褶曲の形成時期は 本図幅の地域だけはそれを規定する根拠が存在しないが, 房総半島南部における褶曲発達区域では 上総層群までを変形にまきこんでいることから, 上総層群の堆積後の長沼不整合期(更新世前期末)と考えられている(三梨ほか, 1979)。 その後, 長沼不整合期の地塊化運動はさらに進行して 剣崎背斜地域や 引橋断層に沿う地域に褶曲が生じ, B 系統や C 系統の断層や 地溝状のキ裂が形成されたと解釈される。
このような過程で生じたキ裂部や地形的な盆地内に 第四紀中期の宮田層が堆積した。
第四紀の後期に この地域の昇降運動が再びさかんになったとき, 三浦半島南端や 引橋断層などの かつての地塊の境界部が再び活動したため, この周辺に限って D 系統, E 系統など面の開離した小断層系が形成されたと解釈される。 そして, 段丘が形成され, 武蔵野ローム層が堆積したあとまでも このような運動が再現して, ローム層を切る正断層や 引橋断層に沿う活断層地形を形成したと解釈される。 なお, このような運動が 立川ローム層の堆積以後まで進行していたかどうかは明瞭ではない。 この間の地表付近の造構応力場は 東西圧縮型, 南北引張型, 東西引張型と変遷し, その分布は局地化する傾向にあった。
本図幅地域の更新世末期から現世にかけての構造運動を示すに当っては, 三浦半島における活断層の運動と, 南方の相模トラフを震源域とする地震性地殻変動を除外することはできない。 以下これらについて概観する。
三浦半島には 前述の引橋断層にほぼ平行し 右横ずれ変位の卓越する活断層が 数条存在する。 それらは 北から 衣笠 断層・ 北武 断層・ 武山 断層・ 南下浦 断層 及び 本地域の引橋断層である(KANEKO, 1969) [ 第 1・2 図参照 ] 。 これらの断層の活動様式には共通性があり, いずれも ごく最近まで反復活動した証拠がある。 たとえば 南下浦断層は 立川ローム層, 武蔵野ローム層, 三崎砂礫層・宮田層・三浦層群のそれぞれを切り, かつ 下位層ほど変位量が大きい(垣見ほか, 1971)。 また, 武山断層は 大正 関東地震の時にその一部が活動し(杉村, 1974), 下浦地震断層を出現させた。
三浦半島の南部における小原台面の形成期以降の段丘面の分布・高度 及び 変形形態も, これらの活断層の運動に規制されていると見られる(岡ほか, 1974)。 引橋断層の近傍に見られる武蔵野ローム層を切る小断層(第 25 図)は, 下位の三浦層群では変位量が増大しており, 変位の累積性がみられる。 この小断層は 引橋断層の運動と関係があるように見える。 また, 三浦市 三崎付近では, 三崎面の高度が急変するとともに 三崎砂礫層の直上の TP・SP 等の鍵軽石層が撓曲状に変形しており(岡ほか(1974)の第 10 図), 波食台形成後の断層運動の存在を暗示している。 このような同一段丘面の高度が短距離の間に急変する例は [ 三浦 ] 半島南部の他地域でも観察されている。 しかし, 大まかにみると, 南下浦断層以南の本地域では, 引橋台地を中心として 小原台面・三崎面とも周辺に向って低くなることから, 引橋台地を中心としたドーム状の隆起が継続し, この運動によって 三崎面に 15 m 以上の高度差が生じたと考えられる。
三浦半島は 太平洋沿岸に位置し, 地震性地殻変動区(吉川, 1968)のなかにある。 その特徴は 沖合の巨大地震の発生時に隆起し, 地震間には沈降するが, その積算としては内陸側への傾動隆起を示すのが 一般である。
本図幅地域は 大正 関東地震(1923 年)の際に著しく隆起した。 地震前後の検潮記録 及び 水準測量成果によると, 隆起量は 油壺で 1.362 m, 引橋台地で 1.29 m, 本地域の北方にある武山断層付近で 1.12~1.14 m であり(檀原(1964)による), 北方(内陸側)へ傾動している傾向が見られる。 第 26 図は 油壼検潮所(国土地理院)の記録による油壺の地盤の上下変動を示したものである (佐藤(1976)による)。 これによれば, 地震後の約 50 年間は沈降を示し, その速度は 3 mm / 年 程度である。 なお, 地震前の約 10 年間の変動は ほぼ横ばいであったと見ることもできる。
本地域は元禄 関東地震(1703 年 ; M 8.2)の時にも隆起したことが知られている。 松田ほか(1974)によれば, 本地域の元禄の隆起汀線高度は 測定可能なところで海抜 2.3~2.5 m 程度であるから, 大正 隆起および地震間の沈降量を考慮すると, 元禄の隆起量は約 1.8~2.5 m 程度と推定される。
このような隆起の累積と内陸側への傾動の傾向は, 成瀬(1968)などによれば 6,000 年前の 沼 段丘の形成期まで遡ることができるとされている。 さらに, 三崎面という海退期の海成段丘が陸上に存在していること自体が, 第四紀末における 本地域の異常な隆起を表しているともいえよう。
しかし, 沼面 以前の累積変位においては 北方への傾動傾向はかならずしも明瞭ではない。 三浦半島内では むしろ 活断層の運動による影響の方が大きいようにみえる。 また, 平均変位速度は必らずしも一定ではなく, 沼面形成期から現在までの隆起速度が もっとも大きいという見解(第 5 表)もある(岡, 1974)。 また 細部についてみると, 三崎面の高度と沼面の高度とがほとんど等しい地点( [ 本図幅の北隣の横須賀図幅地域内の ] 横須賀市 長井)も見られる(岡ほか, 1974)ことから, 当地域では 局部的には大勢とはかなり異ったブロック状の運動をしていることも考えられる。
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一方, 水平変位量については, 大正 関東地震前後の三角測量によれば, 地震時の三浦半島における水平移動量は 南東方へ 4 m 以上 (MUTO(1932)によれば 4.32 m)である。
以上の地殻変動の結果から, 大正 関東地震の震源断層については, 相模トラフ軸部から北西へ傾斜する右横ずれ成分の大きい逆断層であると推定されている。 たとえば ANDO(1971)によれば, その傾斜角は 45°, 右ずれ変位量は 6 m, 垂直変位量は 3 m である。 三浦半島南部における第四紀末の複雑な地殻変動は, この巨大な逆断層の上盤側に位置していることによるとも考えられる。
QUADRANGLE SERIES
SCALE 1 : 50,000
Tokyo (8) No. 93
By Kisaburo KODAMA, Shigefumi OKA and Takashi MITSUNASHI (Written in 1980)
The mapped area is situated about 60 kilometers to the south of Tokyo and at the southern tip of the Miura Peninsula facing the Sagami Trough. Jōgashima Island is on the south of the Peninsula.
The geology of the Miura Peninsula is composed of Hayama, Miura, Kazusa and Sagami Groups and overlying terrace fomrations in ascending order. The Hayama Group is Paleogene or early Miocene in age and the oldest formation in the Peninsula, but is not found in the present area. A summary of the stratigrapnic sequence of the area is shown in the Table 1.
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The Miura Group lies unconformably on the Hayama Group. It is the main constituent of the area and is divided into Misaki and Hatsuse Formations in ascending order. They are middle Miocene marine formations.
The Misaki Formation is composed of alternation of scoriaceous sandstone and sandy siltstone intercalated with thin layers of tuff. Various kind of submarine sliding deposits is distributed in the formation. The maximum thickness attains more than 1,300 meters.
The Hatsuse Formation consists of scoriaceous and pumiceous sandstones which are often cross-laminated. It lies conformablly on the Misaki Formation. The formations upper than the Hatsuse Formation in the Miura Group are not found in the mapped area.
The next younger formation in the area is the Miyata Formation which is a constituent of the Sagami Group and middle Pleistocene in age. It is composed of fine sand including pebbles and cobbles in the lower part, which was deposited under shallow marine environment. It is found within a narrow graben along the Hikihashi fault, and lies unconformably on the Miura Group. The thickness is more than 25 meters.
Marine terraces are widely distributed in the area and are divided into Shimosueyoshi, Obaradai and Misaki terraces, in ascending order of formation. They are late Pleistocene in age, and were formed as the abrasion platforms during the latest interglacial transgression and successive regression.
The Shimosueyoshi terrace is covered by the Shimosueyoshi and younger aeolian volcanic ashes. The Obaradai terrace is made up loamy sand and is covered by the Obaradai and younger aeolian volcanic ashes. The Misaki terrace is composed of grabel and sand, and is covered by the Musashino and younger aeolian volcanic ashes.
A large anticline having east-west trend extends along the southern end of the peninsula, and is called Kenzaki anticline. Overturned structures is observed along the southern limb of the anticline. A gentle basin is distributed in the north-east part of the area. Several folds in small scale are found in the area.
Large faults extending east-west direction are found from Hikihashi to Kohama and near Koajiro. Minor faults whose displacement is on the order of centimeters to a few meter are found in the area, and are divided into 5 fault systems, each of which were formed in order. They occurred after the formation of folds.
Height distribution of the terrace surfaces suggest the gentle upwarping in the southern part of the peninsula during the latest Pleistocene to the recent.
During the last four centuries the present area had experienced two great earthquakes which occurred along the Sagami Trough. They are the 1923 (Taisho) Kanto Earthquake of magnitude (M) 7.9 and the 1703 (Genroku) Kanto Earthquake of M 8.2. Both tidal record at Aburatsubo in the west coast of the area and levelling data revealed that Aburatsubo had uplifted by 1.362 meters on the time of 1923 earthquake and then it has subsided gradually with the approximate rate of 3 mm / year. According to the old documents and height distribution of coastal benches, simillar (1.1 to 1.3 meters) uplift at the 1703 earthquake and successive subsidence are also recognized in the present area. The accumulation of these coseismic uplift and chronic inter-seismic subsidence explaining [ ← 動詞 ; "explain" で良いのでは ? ] well the recent altitude, 11 to 15 meters above sea level, of the Numa terrace in the mapped area which was formed as a wave-cut bench and emerged approximately 6,000 years ago.
昭和 55 年 3 月 21 日 印刷 昭和 55 年 3 月 25 日 発行 著作権所有 通商産業省 工業技術院 地質調査所 (C) 1980,Geological Survey of Japan